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 この「凌雲閣」も含めて、それまでの「ミスコン」は芸妓らに限定されていた。そんな中、「美人写真コンテスト」が応募者を一般女性に限ったことは画期的だったのだ。

 第1次審査の当選者から第2次審査での全国第1~4等当選者に与えられる賞品もずらりと紹介された。全国第1等、つまり「美人日本一」への賞品は「18金ダイヤモンド入り指輪」で「価金300円」とある。現在の価値だと約100万円。写真を投稿した人にも50円(同約17万円)が送られる。記事には「米国第1~第3の美人」の写真も添えられている。

福澤諭吉が創刊した「時事新報」がコンテストを主催

 この「美人コンテスト」キャンペーンを実施した時事新報についても触れておく必要があるだろう。福澤諭吉が1882(明治15)年に創刊し、慶應義塾(1858年設立)と並ぶ福澤の二大文化事業とされた。日本の新聞がまだ大阪中心だった時代、福澤の「独立不羈(どくりつふき)」の精神にのっとって福澤と門下の慶應出身者が論説などの筆を執り、時代風潮もあって明治・大正期の一流紙に。

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福澤諭吉(国立国会図書館「近代日本人の肖像」 より)

 後年社長を務めた板倉卓造は「別冊新聞研究」(1975年)のインタビューで、同紙は日露戦争で特ダネを連発して世間からの評判が高まったが、「それ以前から『日本一の時事新報』という名前を使っておりましたが、それは事実でした」と語っている。クオリティペーパーに近い存在付けだったと考えられる。

コンテストは新聞で連日取り上げられた

「美人写真コンテスト」の案内広告はその後も何回か掲載され、その都度、当選者に寄贈される賞品が増えた。デパートからの着物や帯、化粧品会社からの美容商品……。各地の契約写真店を紹介し、「美人写真」の撮影料金は通常の5割引にするとも伝えた。

 同年10月5日付からは「応募人写真」としてほぼ連日、複数の写真を掲載。好評のため応募期間を延長したうえ、翌1908(明治41)年元日付からは第1次審査に通過した「美人」を何人かずつ約40回にわたって紹介した。末弘ヒロ子は「末弘トメ子」の名前で2月4日付の5人中「1等」になっている。

 賛同した新聞の1つ、栃木県の下野新聞は1月3日付で、県内で選ばれた「五美人」の賞品贈呈式を行ったと報道。1月11日付からは第1等に選ばれた宇都宮市議の三女(19)をはじめ、第5等までの女性の写真をとびとびに掲載した。「美人写真」企画は正月紙面にも利用されたわけだ。

下野新聞は栃木県内で「1等」に選ばれた女性の写真を掲載した

著名な審査員によってトップ3が決定

 審査は順調に進み、3月1日、時事新報は京橋区南鍋町(現中央区銀座)の「交詢社」(福澤諭吉を中心に設立された日本初の社交クラブ)で行われた第2次審査の模様を写真入りで伝えた。

 審査委員は、のちに五代目中村歌右衛門となる歌舞伎俳優の五代目中村芝翫、新派の女形で知られた俳優・河合武雄、洋画家・岡田三郎助、東大で初の医学博士となった医師・三宅秀らそうそうたる顔ぶれの13人。中には夫人と一緒に訪れて熱心に写真を審査したとある。そして、第2次審査の結果は4日後、3月5日付紙面で1ページ余にわたって発表された。