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米国からの“挑戦状”を受けるべく「美人の写真」を募集

 そしてこの「美人写真コンテスト」の企画は約2カ月後の9月15日付紙面に、見開きの大々的な案内記事となって正式に発表される。

 日本第一美人の寫眞を募集す

 

 太平洋の彼岸・米国から一通の挑戦状が来た。「こちらに絶世の佳人がいる。傾国傾城(国や城を傾けるほどの美人のたとえ)戦勝日本の娘子軍(女性軍)にあえて身を挺してこれと姿を競い、色を闘わせたいという者があればすぐに名乗り出てきたまえ」

 いかにも大仰な呼び掛けだが、記事には賛同各社として上毛新聞(群馬)、河北新報(宮城県)など地方紙21紙が記載され、それぞれ写真の受け付け先になることや、第1次選考では道府県(東京もまだ東京府だった)ごとに5位までを選定し、それを集めて第2次選考を行うことなどを定めた。

 ここで目立ったのは「募集規則」の冒頭で「女優、芸妓その他、容色をもって職業の資とする者の写真は採用せず」(原文のまま)としたことだった。

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かつては芸妓100人が競ったコンテストも…

 そもそも、「ミスコン」に類したものは明治20年代からあった。1891(明治24)年7月5日付東京日日(東日=現毎日新聞)に「凌雲閣の奇策」という記事が載っている。

 浅草公園地内の凌雲閣では相変わらず300人平均の登閣(入場)者があるというが、近頃陳平(中国の軍師)もどきの奇策を講じる者がある。(東京)府下の名だたる芸妓100人を選抜してその真影を写し、それを各階に配置して登閣者に品評させ、その投票で品定めをしようというもくろみで、目下準備中。

 凌雲閣とは前年の1890(明治23)年、東京・浅草公園に完成した12階建て、高さ52メートル(67メートル説も)の遊覧施設。当時「高さ日本一」とされ、「浅草十二階」の呼び名で東京の新しい観光名所になっていた。

 ポーラ文化研究所編『幕末・明治 美人帖愛蔵版』(2002年)によれば、写真を額に入れ、4階から7階まで展示。来場者に投票してもらい、上位5人には金のメダルを贈与したという。

「凌雲閣」で行われた写真コンテストに参加した芸妓の写真(『幕末・明治 美人帖愛蔵版』より)

 7月14日付東京朝日(東朝)は「凌雲閣の大改良」の見出しで、納涼期の新企画の1つとして翌15日から30日間、芸妓100人の写真の掲示と投票が行われると報じ、100人の名前を列挙している。凌雲閣は完成当初、日本初のエレベーターを設置したが、警視庁から「危険」とされて撤去。代わりの集客策としてこの催しを企画したとみられる。

『幕末・明治 美人帖愛蔵版』によれば、同年から3年連続で実施され、翌1892(明治25)年11月10日付東朝には「吉原百美人 寫眞陳列 十一月十三日開始 十二月一日より投票 浅草公園地 凌雲閣」の広告が見られる。

浅草・凌雲閣で芸妓100人を対象に行われた「美人写真コンテスト」の広告(東京朝日)

 当時、新聞の読者の大半は成人男性だったこともあって、各紙は紙面に美人芸妓らの写真を載せることが多かった。政治家や歌舞伎役者らと浮き名を流す有名芸妓も。その中から「新橋の萬龍」「洗い髪のお妻」ら「スター」も生まれた。