いまから122年前の1902(明治35)年に起きた八甲田山雪中行軍遭難事件。訓練に参加した210人中199人もの犠牲者を出した「日本山岳史上最悪」の遭難では、一体何が起きていたのか――。
今回も当時の新聞記事や記録は、見出しはそのまま、本文は現代文に書き換え、適宜要約する。文中にいまは使われない差別語、不快用語が登場するほか、敬称は省略する。部隊名の表記は例えば「歩兵第五聯隊」「三十一聯隊」が当時の正式名称だが、新聞記事の見出し以外「歩兵第五連隊」「三十一連隊」などで統一する。(全3回の2回目/はじめから読む)
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1月23日に出発した旧陸軍青森歩兵第五連隊だったが、2日目には道に迷い、天候もさらに悪化。氷点下25度以下と思われる極寒の中、10メートル先の物も見えず、兵士の士気は挫折していった。露出した皮膚はすべて凍傷になり、昏倒する者も多く、この日の露営地では最も多く死亡者が出た。
3日目 夜が明けても道は見つからない
〈【3日目=1月25日】午前3時ごろ、天候が少し回復して周囲がやや明るくなったのを夜明けと誤解したらしく、出発することになった。神成大尉が各小隊を集め、人員を確認したところ、3分の1は既に倒れ、3分の1は凍傷で運動の自由を失い、残り3分の1だけが比較的健常だった。一列縦隊で鳴沢渓谷を下った。風雪はやや収まったようだったが、寒気は依然として前日と同じ。
500メートル行っても道はなく、転回して露営地を通過。西南の方向に進んだが、凍傷患者は歩一歩加わり、飢餓は刻一刻迫った。800~900メートル進むと突然、よじ登ることもできない急峻な山が前に横たわった。
どうすることもできず、「悵恨これを久しうせり(嘆き恨むことしばし)」。(『遭難始末』原文のまま)〉
「天は我々を見放した」は言ってはいけなかった
映画『八甲田山』のCMコピーで流行した「天は我々を見放した」は、この時に神成(小説と映画では「神田」)大尉が発した言葉というが、生存者によると、実際は「これはダメだ。われら軍隊は死ねというのが天の命令である。みんな露営地に戻って枕を並べて死のう」だった。
これを聞いた兵士らは意気阻喪し「あっちでバタリ、こっちでバタリ、足の踏み場もないほど倒れた」という(「検証 八甲田山雪中行軍遭難事件」)。同記事は「指揮官の不用意な発言」と批判している。