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〈また露営地に戻ろうと三度転回。道々、死者の糒や餅を収容した。この時まで、興津大尉は部下に抱きかかえられて行軍していたが、ここで絶命した。この往復の間に約30人が凍傷で倒れ、十数人が行方不明となった。午前5時半ごろ、露営地に戻ったが、山口少佐は人事不省となり、軍医や将校が常にそばで看護に努めた。

 代わって最上級者の倉石大尉が指揮を執り、背嚢の木枠を外して火をつけ、なんとか少佐の体を温める一方、遺体を集めて雪で覆い、持久の策を講じた。斥候の希望者を募り、二手に分けて田茂木野方面に斥候に出した〉

新聞に掲載された倉石大尉の似顔絵(奥羽日日)

「救援隊が来た」喜んだのもつかの間、よく見ればその正体は…

〈午前10時、「救援隊が来た」と叫ぶ者があり、一同驚喜して前方の高地を見ると、数多くの兵士が道を開きつつ前進し、2列になったり1列になったり、あたかも自分たちに向かって急進してくるよう。感極まって泣く者もあり、隊の士気は大いに上がった。

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 倉石大尉はラッパ手に吹奏させようとしたが、ラッパは唇に凍り付き、疲労で腹に力がなく、わずかに切れ切れの一声二声を発しただけだった。しかし、11時になっても救援隊の様子はそのままで、よく見れば、側面縦隊の兵士たちと見えたのは数多くの樹木で、2列や1列になっていたのは風雪が漂っていたためだった。一同は呆然として士気は大いに阻喪した〉

 猛烈な寒さと疲労、飢餓から集団での幻覚症状が起きたということか。将校の1人は「木の枝と分かっていたが、皆を落胆させたくないと思って黙っていた」とのちに証言している。

〈午前11時半ごろ、一方の斥候隊長が「帰途を発見した」と報告してきた。山口少佐は火の近くでやや元気を取り戻しており「直ちに帰路に就くべし」と命令。一同は士気を取り戻したようだった。倉石大尉ら数名以外は凍傷で武器を持つことは難しく、倉石大尉は重傷者の銃は叉銃(さじゅう=銃を組み合わせ三角錐状に立てること)させて放置。

 正午ごろ、出発した。従う者は60~70人。午後1時ごろ、鳴沢の谷底から馬立場に通じる道に出ると、一同喜色満面。風雪、寒冷は前日の比でなく、200メートルの周囲は展望できた。午後3時、馬立場に到達。薄暮に近くなってくると、進路は徐々に分からなくなり、風雪はまた猛烈になった。午後5時になって将校1人と軍医の行方不明が判明。倉石大尉は露営地を定め、後から来る山口少佐らを待ったが、とうとう来なかった〉