「陸軍歩兵大尉倉石一遭難陳述書」は1月26日の記述を「ばったり昏倒せり」で終結。神成大尉と別れて渓谷に入ったのを27日の出来事としている。以後は、その「陳述書」によれば――。
〈1月28日は、断崖を登ろうとしたが目的を達することができず断念。「ああ、後ろに断崖、前に渓水。実に進退極まれり。これにおいて余は天命を待つことに決心し、断崖下に一地を定め、伊藤(格明)中尉とともに覚悟の座を占めたり」。
山口少佐は最も渓水に近い崖に横たわり、倉石大尉らが比較的風雪を防げる断崖下に移ってほしいと懇願したが厳として聞かず「自分既に死を決せり。この地点を一歩も動くことなし」と言った。29日、30日は兵士が場所を動いた程度だった〉
「まだ死ぬことができないのか」
〈1月31日。渓谷に入ってやや天気がよくなって2日。雪面が固まって、あるいは断崖を登れるかもしれないと考え、倉石大尉らの一団は午前8時ごろから歩き始めた。約250メートルの断崖を登り、午後3時ごろになって、かすかに高地に人がうろうろしているのを認めた。
同行の4人が声を上げて救援隊に助けられた。渓谷にいた間は流水と雪で命をつないでいた。付近に木の枝など燃やす物はあったがマッチがなかった。ただ、断崖下で比較的温かかったため、救助されるまで耐えられたのだと思う。時々代わる代わる山口少佐を見舞ったが、答えは一言のみ。「いまだ死するを得ず(まだ死ぬことができないのか)」だった〉
最も防ぐべきだったのは「風」
高木勉『八甲田山から還ってきた男』には、三十一連隊雪中行軍隊隊長の福島泰蔵大尉が行軍終了後、青森測候所に問い合わせた気象記録の回答が載っている。それによると、行軍第1日の1月23日は西の風で雪。夜は疾風となり、最低気温は氷点下8度7分だった。
翌24日は西よりの強風、大雪かつ吹雪で最低気温氷点下12度3分。そして凍死者が続出した25日は西よりの疾風で大雪、最低気温は氷点下11度6分だった。八甲田山麓ではさらに低温だったと考えられる。北海道から東北にかけて猛烈な寒気団に包まれ、25日は北海道上川で氷点下41度の観測史上国内最低気温を記録している。大暴風と極寒の特異日だった。
文豪森鷗外こと軍医森林太郎は雑誌「公衆醫(医)事」1904年2月号に匿名で書いた「防寒略説」で防寒上「最も恐れるべきものは風だ」と指摘。「検証 八甲田山雪中行軍遭難事件」によれば、兵士らを収容、治療した青森衛戍病院(陸軍病院)の院長も遭難の主因を被服や糧食でなく「風魔を遮るのを怠ったこと」と分析したという。