いまから122年前の1902(明治35)年に起きた、八甲田山雪中行軍遭難事件。未曽有の荒天の中でいくつもの人為的なミスが重なったとされる。だが、その責任はほとんど追及されないまま、「無謀な行軍」の悲劇は「天災」として片づけられただけでなく、いくつもの「美談」に転化された。
その陰で事実は隠蔽され、多くの謎が残された。そこには、近づきつつあった日露戦争に全ての関心を振り向けようとする強い力が働いていた。210人が遭難し、199人が犠牲になった「日本山岳史上最悪」の遭難はどのように伝えられたのか。あるいは伝えられなかったのか――。
今回も当時の新聞記事や記録は、見出しはそのまま、本文は現代文に書き換え、適宜要約する。文中にいまは使われない差別語、不快用語が登場するほか、敬称は省略する。部隊名の表記は例えば「歩兵第五聯隊」「三十一聯隊」が当時の正式名称だが、新聞記事の見出し以外「歩兵第五連隊」「三十一連隊」などで統一する。(全3回の1回目/続きを読む)
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雪国の軍隊
事件に関する研究書、ノンフィクションはかなりある。しかし総じて、筆者の見るところ、内容が偏っていたり肝心な点が抜け落ちたりしている印象が強い。この遭難事件の問題点はどこにあったのかを押さえながら見ていこう。
1902年1月17日付の青森県の地元紙・東奥日報は前日16日に行われた陸軍歩兵第五連隊(青森)の軍旗祭(軍旗の拝受を記念した祝賀行事)の模様を記事にしている。
軍旗祭では津川謙光・連隊長が「大元帥陛下(天皇)に明治12(1879)年本月本日をもって東北の寒地に衛戍(えいじゅ=駐屯)するわが連隊に軍旗を授け」「威武を世界に発揚せんことを期す」とした奉告文を朗読。綱引きや銃剣術の試合、雪合戦などの「余興」が行われた。
翌18日付同紙の軍旗祭雑観記事では「一記者」が次のように記している。「この雪国の軍隊は、今後いついかなる所にさらに一層の武勇を表すだろうか」。その約1週間後に起こることをまだ誰も知らなかった――。