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露出した皮膚は凍傷に…自分で放尿もできなくなった

〈山口少佐はじめ将校の多くも凍傷にかかったが、特に終始兵士の救護に当たっていた永井(源吾)軍医が手の指を凍傷に侵され、ついに職務を果たせなくなったのは行軍隊の不幸だった。午後4時ごろ、水野(忠宜)中尉は従卒とともに倒れた。午後5時ごろ、先頭が狭小な窪地にたどり着いて落伍者を収容。

 日没が近くなり、露営地を探したが適地が見つからず、前の窪地に戻って露営を決めた。この日、行軍中、少しでも皮膚を露出すれば凍傷にかからない者はなかった。特に手の指の自由を失った者は、人の手を借りなければ(軍衣袴=ズボン=のボタンが外せないため)放尿ができず、その時間がなくてそのまま放尿した者もあった。

 行李運搬の兵は負担に耐えられず、荷を下ろすか行李とともに倒れ、行軍についてこられた兵はわずかに5~6人。人員を点検すると、実に総員の4分の1を失っていた〉

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 水野中尉は紀伊新宮藩の最後の藩主の長男だった。

ほとんどの兵士が何も口にできず、20人余りの死者が出た

 野営も悲惨だった。

〈風雪と寒気は昼間と変わらず、焼くに燃料なく食うに飯なし。わずかに各自が携行していた2~3食の糒と1~2個の餅、1個の牛肉缶詰があるだけ。しかし、餅は凍結し、缶詰は開ける物がないうえ、人の手を借りなければ口に入れることもできない者もあって、何かを食べた者はわずかだった。兵士は心身ともに衰弱し、視力も異常に。そばを歩いている戦友が、怪物が飛翔しているかのように感じた者も。

 午後9時ごろになり、人事不省となって昏倒する者が多く、死者20人余りが出た。興津(景敏)大尉も倒れた。部下の少尉、特務曹長のほか、兵士軽石三蔵(二等卒=二等兵)らが大尉を抱擁して終夜蘇生を図った。

 午後10時、山口少佐は将校の意見を集め、次のように決定した。「田茂木野方面に進めば、救援隊の援助を受けられる可能性があるし、木こりや猟師に出会うこともないとはいえない。暗夜に出発するのは危険。天明を待って出発することにしたい」〉

「検証 八甲田山雪中行軍遭難事件」は「ここにきて山口歩兵少佐も暴風雪下での夜間行軍は危険であるとようやく悟ったのだ」と書いている。興津大尉をめぐっては、後で事件の波紋として大きな意味を持ってくる。

 この第2露営地は最多の死者が出た場所となった。