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1日目 予想外の激しい風雪

〈【1日目(1月23日)】午前7時40分、幸畑村に達し約15分休憩。先頭の小隊に寒地着(かんじき=足が雪に入るのを避けるため、木の枝やつるを輪にして着ける道具)を着けた。田茂木野東方からは傾斜が急で、行李の動きが困難になり、たびたび行軍を休止して待つようになった。

 11時半、小峠到着。昼食になったが、風雪が強くなり寒気も加わって、携行した米飯は半ば凍結。兵士は手袋のままようやく食べた。行軍を再開して午後4時ごろ、馬立場(現青森市)に到達。田代方面を遠望できたが、後方を進む行李のそりの遅れが甚だしく、2小隊を応援に向かわせるのと同時に、曹長以下15人を設営隊として田代に先発させた〉

 風雪の激しさで行軍は難航したが、まだこのあたりまでは田代到達に大きな不安を感じなかったようだ。しかし、天候はさらに厳しくなる。

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胸が隠れるほどの積雪、壕の中で眠ることに

〈日没に近かったが月明りを頼りに進み、鳴沢(現青森市)の渓谷に下った。付近は傾斜が非常に急峻のうえ、積雪は胸を没するほどで、進むも止まるも困難は名状し難いほど。特にそりは進む見込みがないため、荷物のほとんどは兵士が担ぐしかなかった。

 そして、先発した設営隊は道に迷って高地を一周し、行軍隊の後ろに付いていた。山口少佐は士官ら3人に田代方面を偵察させたが、進路は険しく通過できないと報告を受けた。さらに風雪が猛烈に襲い、天地が暗くなったため、少佐は到底田代に到着することはできないと判断。午後8時15分、その場で露営する命令を出した〉

第五連隊行軍経路。行軍の遅れや天候悪化のため田代まで1.3kmを残した地点で露営することとなった(「歴史群像」より)

手の感覚は奪われ、食事もろくに取れず

 露営も尋常の苦労ではなかった。

〈露営地は風雪を遮る物のない、まばらな低い樹林。円匙(えんぴ=円形のシャベル)などで積雪を8尺(約2.4メートル)掘ったが、地面に届かなかった。各小隊ごとに縦2メートル横5メートル深さ2.5メートルの雪壕を造り、中に入ったが、覆う物も敷く藁もなく、木の枝を切るにも道具は少ないうえ、積雪で動けず、作業中、手の感覚を失う者が多くて、わずかしか得られなかった。

 苦心して1時間かけてようやく炭火をおこしたが、木炭は1小隊40人にわずか約6貫目(22.5キロ)にすぎず、1つの雪壕で1つの火しかおこせなかった。各人は交互に火に近づいて暖をとり、他の兵士は雪の壁にもたれて休み、仮眠をとった。

 掘った穴の雪の上にかまどを据えて煮炊きをしたが、水は雪を溶かすしかないうえ、かまどの熱が雪を溶かしたため、かまどが傾いてしまった。

 炊事係の下士官らが苦心惨澹(くしんさんたん)のすえ、午前1時ごろになってようやく1食分の生煮えの米飯を配ることができた。餅は石のように凍って、火で温めてわずかに飢えをしのぐ程度。酒も携行していたが、炊飯後の釜で温めたためか、異臭がひどくて飲めなかった〉

 惨澹たる1日が終わったが、行軍隊の本当の苦難はこれからだった。