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 歩兵第五連隊は明治7(1874)年、青森県筒井村(現青森市)に創設(編成完結は1878年)され、西南戦争(1877年)から戦歴を重ねた日本陸軍創設以来の古参連隊だった。

 日清戦争(1894~1895年)に勝利した日本は、遼東半島などの割譲を三国干渉によって断念。満洲(中国東北部)をめぐってロシアとの対立を深めていた。

「明治31(1898)年に新設された第八師団(第五連隊の上部組織)は本州最北端の師団として、来たるべきロシアとの戦争において、極寒地での活躍を運命づけられていた」(『新青森市史 通史編 第3巻(近代)』)。

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雪中行軍は毎年恒例だった

 当時は五連隊だけでなく寒冷地の陸軍部隊はこの時期、雪中行軍を行うのが毎年恒例だった。五連隊の軍旗祭を報じた17日付東奥の同じ紙面には、因縁の関係である歩兵第三十一連隊の「20日から10日間の見込み」という雪中行軍計画が短く載っている。

 宮城県の地元紙・河北新報は翌18日付で「各隊とも毎年1月中には雪中行軍があることなれば、本年も今月中、降雪を見計らって行われるだろう」という短信を掲載。歩兵第四連隊(仙台)第二大隊が16~17日に1泊で秋保まで行軍したと伝えている。

 1月26日付東奥は評論で「雪中行軍隊を想ふ(う)」と題し、雪国には他の地域の人々には想像できない苦難があるが「この地に衛戍する軍隊は、むしろそれを研究すべき天職を負うているというべきか」と指摘。

 第八師団所属の三十一連隊と五連隊が雪中行軍に出発済みと記したうえで、「他日、国家に一朝事ある日、わが雪国軍隊が雪中行軍に得た幾多の経験を応用する時があるだろう」と期待を表した。しかし、既にこの時点で五連隊の雪中行軍隊は未曽有の悲惨の中にいた。

「雪中行軍隊を想ふ」の評論。この時既に悲劇は始まっていた(東奥日報)

遭難に至る経過は…

 歩兵第五連隊は遭難から約半年後の1902年7月23日付で事件についてまとめた公式記録『遭難始末』を刊行している。同書を基にした1963年刊行の『青森市史 別冊(第3) 歩兵第五聯隊雪中行軍遭難六十周年誌』(以下、『六十周年誌』)と合わせて、記述から遭難に至る経過を見よう。

〈【行軍の目的】雪中、青森から田代(現青森市)経由で三本木平野に進出できるかどうかを判断するため、田代に向けて1泊行軍を行う。もし進出できるとすれば、戦時編成1大隊をもって青森屯営から三本木に至る行軍計画と大小行李(こうり=弾薬や食糧の運搬部隊のこと)の特別編成案を立てる〉

 直接的には「仮想敵であるロシアが太平洋岸に上陸し日本鉄道(現東北本線)、陸羽街道が分断された場合の代替路の確保の可否」(『新青森市史 通史編 第3巻(近代)』)だった。