いまから122年前の1902(明治35)年に起きた八甲田山雪中行軍遭難事件。未曽有の荒天の中でいくつも人為的なミスが重なったとされるが、その責任はほとんど追及されないまま、「無謀な行軍」の悲劇は「天災」として片づけられただけでなく、いくつもの「美談」に転化されていった。
訓練に参加した210人中199人が亡くなった「日本山岳史上最悪の遭難」はどのように伝えられたのか。あるいは伝えられなかったのか――。
今回も当時の新聞記事や記録は、見出しはそのまま、本文は現代文に書き換え、適宜要約する。文中にいまは使われない差別語、不快用語が登場するほか、敬称は省略する。部隊名の表記は例えば「歩兵第五聯隊」「三十一聯隊」が当時の正式名称だが、新聞記事の見出し以外「歩兵第五連隊」「三十一連隊」などで統一する。(全3回の3回目/はじめから読む)
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1902年1月23日に出発した旧軍青森歩兵第五連隊。この年の冬は、北海道から東北にかけて猛烈な寒気団に包まれ、25日は北海道上川で氷点下41度の観測史上国内最低気温を記録した日でもあった。しかし、五連隊の津川連隊長は行軍隊が行程通り進んでいると楽観視。帰還予定の日を過ぎてからようやく救援隊を編成したが、悪天候もあって対応が遅れ、凍りついて直立したままの後藤房之助伍長が発見されたのは27日のことだった。
大規模な捜索により将校、下士官、兵士らが生存あるいは死亡で発見。救助されて病院に収容された17人のうち、5人が凍傷などで死亡し、全治したのは3人だけだった。
210人中199人が死亡した「大惨事の凍死」
訓練に参加した210人中199人が死亡という大惨事に、世論は沸騰した。東京の新聞も1月29日付で東朝や時事新報、都新聞(現東京新聞)などが大きく報じ、黒岩涙香の萬朝報、陸羯南が創刊した新聞の日本なども小さく伝えた。五連隊は岩手と宮城から兵士を徴募しており、参加者210人中、岩手出身は144人。地元紙・巌(岩)手日報も1月30日号外で「嗚呼(ああ)慘事々々大慘事二百餘(余)の凍死」と報じた。
新聞報道は当初「一隊の士卒皆凍死」「行軍兵209名の凍死」「140名凍死、他は解散・行方不明」などと混乱したが、その後は連日、行軍隊員が生存あるいは遺体で見つかったというニュースや軍部の対応、侍従武官派遣、犠牲者と遺族関係の情報などを記事化した。
「東朝では『全軍凍死』の報が入ると、直ちに(記者の)村井啓太郎と挿し絵画家の河合英忠とを現地に特派した」(『朝日新聞社史 明治編』)。彼らによる「遭難畫(画)報」は2月5日付の「捜索隊の哨所(しょうしょ=歩哨の詰め所)」から連載された。
新聞にほとんど写真のない時代、ほかに時事新報も捜索の状況や遺体搬送などの挿し絵を載せたほか、各紙は山口少佐、神成、倉石両大尉らの似顔絵を競って掲載した。