巨額の義援金が集まった
『凍える帝国 八甲田山雪中行軍遭難事件の民俗誌』によれば、遭難事件は「生き人形」や幻灯、講談にも取り上げられたほか、大正時代には歌舞伎出身のスター澤村四郎五郎主演で琵琶を生伴奏にした無声映画も製作された。遭難を題材に落合直文が作詞した軍歌「陸奥の吹雪」がヒットしたほか、詩人大和田建樹ら多くが詩に詠うなどして、事件は悲劇として広く知られるようになった。
義援金を申し出る国民が続出し、その総額を陸軍省編纂『明治軍事史』は「実に二十有数万円の巨額を数えたのは、いまだかつて聞いたことがない」と記した。現在の10億円を超えたと考えられる。「雪中行軍神話」は見事に成立した。
この間、陸軍省内に設けられた取調委員会は事件の責任を協議。『新青森市史 通史編 第3巻(近代)』によれば、結論を出したのは遭難から4カ月余り後の1902年6月9日だった。報告書は児玉の後任の寺内正毅陸相(のち首相)に提出されただけで公表されなかった。『青森県史 資料編 近現代2』に収録された「遭難事件当局者の責任に関する報告書」は冒頭でこう言い切っている。
将校以下二百余名が悲惨の極に遭遇した顛末は、はたして人力では救済できない天災だったのか、そうでないのかを追究するに、全く予想できない天候の激変で、避けることができない災厄だったことは明瞭だ。
これは第五連隊長、第八師団長らの意見をそのまま受け入れた結果だった。報告書は「計画・準備」「実施」「善後の処置」に分けて検討しているが、責任者である山口少佐について「あえて死屍に鞭打つ必要はない」と判断。他に責任を求める者はなく、ただ救護措置の遅れについて連隊長の責任は免れず、相当の処分が相当とした。『新青森市史 通史編 第3巻(近代)』によれば、寺内陸相は天皇の裁可を仰いだが、結局連隊長も実質的には処分なしで決着した。軍中央の描いた筋書き通りだっただろう。
2年後の1904(明治37)年2月、日露戦争勃発。そして、1905年1月、奉天会戦の前哨戦としての黒溝台会戦が行われた。
伊藤正徳『軍閥興亡史 第1巻』によれば、日本軍は予備軍として長く内地に留め置かれていた第八師団に攻撃させたが、戦力ではるかに上回るロシア軍の抵抗で激戦となり、応援部隊の参戦もあって辛うじて勝利した。この戦いで第八師団は名声をあげたが、八甲田山雪中行軍生き残りの五連隊・倉石大尉と雪中行軍を成功させた三十一連隊の福島大尉は戦死した。
結局、軍部は大量遭難の最大の原因を「想定外の天候の激変」とし、遭難劇をいくつもの美談に彩られた「戦雲近づく中での悲劇」にすり替えた。その犠牲となったのが三十一連隊の雪中行軍だった。条件が違うとはいえ、同じ「天災」下で一方に成功例があるのはまずかったはずだ。