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「殉国者としていかなる批判も許されなかった」

『東奥日報百年史』によれば、三十一連隊の行軍には弘前支局の東海勇三郎記者が随行していた。中園裕「資料で見る『雪中行軍』」(「市史研究あおもり」所収)によれば、三十一連隊は行軍中、五連隊行軍兵士2人の遺体と銃2丁を目撃。

 東海記者はそれを1月29日付号外で記事にしたが、「数日後に当該記事は姿を消し、三十一連隊の壮挙とともに全く記されなくなっている」。同論文はそう指摘し、こう書いている。「記しておきたいことは、何よりも五連隊の行軍将兵が天皇から戦死者同様の待遇と認められ、殉国者としていかなる批判も許されなかったことである。雪中行軍遭難事件を語る際には、このような政治的圧力と社会的風潮を理解する必要があろう」。

一部の紙面が保存されていない

 その東奥日報は、当時の一部の紙面が保存されていない。『東奥日報百年史』によると、現存しないのは1月28日付と1月30日~2月7日付。遭難報道のピーク時で、同書は「大事なカギが重要な意義があって持ち去られたのであろうか」と書いている。何らかの政治的圧力が働いたと考えるのが自然だろう。「雪の悲劇」の筋書きに、都合の悪い事実はなかったことにされたのではないか。

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1962年、三十一連隊が五連隊の遭難を目撃していたことがあらためてニュースになった(東奥日報)

遭難事件であらわになった日本軍の体質

 取調委員会の報告書は道案内を同行させなかったことについて、同じ時に土地に精通した炭焼きや猟師が道に迷ったり死亡したりしていることを挙げ、「同行させて安全だったかどうかは分からない」とした。責任追及の点からいえばそうかもしれない。しかし1つの問題は、軍隊が地域でどんな存在であり、住民とどのような関係を結ぶべきなのかだ。

 住民の声を記録した資料からは、「兵語」とはいえ、住民を「土民」と呼び、行軍兵士の家族に宿泊を求められて「連隊は旅籠屋(はたごや=旅館)ではない」と断ったことが分かる。傲慢で頑迷で閉鎖的な体質は、軍内部の上から下に向けても同様だった。

 遭難事件の処理次第では、そうした理不尽な体質をわずかでも変える可能性があったかもしれない。しかし、戦争を目前にした強引な論理が全てに優先された。この事件で表れたのは日本軍の本質だった。

 日本兵は粘り強く精強だといわれた。一方で、八甲田山の厳寒地獄をさまよう行軍兵士の姿は四十数年後、ニューギニアやインパールで、苦しんだすえに死んでいった日本兵の姿と重なる。この事件の結末を見れば、日露戦争で薄氷を踏む勝利を得たことも、太平洋戦争で悲惨な敗北を避けられなかったことも、どこか約束されていたように思える。

【参考文献】
▽『新青森市史 通史編 第3巻(近代)』(青森市史編集委員会編、2014年)
▽『遭難始末』(1902年)
▽『青森市史 別冊(第3)歩兵第五聯隊雪中行軍遭難六十周年誌』(1963年)
▽『朝日新聞社史 明治編』(1995年)
▽岩崎元郎『今そこにある山の危険』(ヤマケイ新書、2014年)
▽『青森県史 資料編 近現代2』(2003年)
▽丸山泰明『凍える帝国 八甲田山雪中行軍遭難事件の民俗誌』(青弓社、2010年)
▽伊藤正徳『軍閥興亡史 第1巻』(文藝春秋、1957年)
▽『東奥日報百年史』(1988年)
▽陸軍省編纂『明治軍事史』
▽高木勉『八甲田山から還ってきた男』(文春文庫、1990年)
▽『青森歩兵第五連隊雪中惨劇の記録写真特集』(十和田アドバー社、1978年)
▽長南政義「検証 八甲田山雪中行軍遭難事件」(「歴史群像」2022年2月号所収)
▽「公衆醫(医)事」1904年2月号
▽中園裕「資料で見る『雪中行軍』」(「市史研究あおもり」所収)