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地元民は危険を知っていた

 既に1月29日付東奥には「村民死を豫(予)期す」という短い記事が見える。「田代方面は冬季は非常に危険な所で、今年のように『厚雪』で『堅雪』にならない時は危険は計り知れないとして、村民は行軍隊が帰ってこないとの知らせを聞いて、一行の凍死を確信していたという」。対して兵士たちはどうだったか――。

 2月21日付東奥には、生存者の長谷川(貞三)特務曹長の「(出発前の考えでは)田代というのはわずかに5里(20キロ)ばかりで、湯に入りに行くつもりで、タッタ手ぬぐい1本を持っただけ(のつもり)だった」という談話が載っている。「五聯隊の責任」は特に、小説や映画で五連隊と比較される三十一連隊の行軍成功とその理由を挙げているのが注目される。指摘は続く。

〈(4)五連隊の捜索の緩慢さもまたひどい。行軍隊は1泊で24日帰営の予定だったが帰らず、26日、筒井村の村長が連隊長に、村民らが行軍隊が生還しないのではないかと心配していると言って捜索を求めたが、連隊長は「あなた方の関知するところではない」と顧みなかった。

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 翌27日、青森市の書記がさらに忠告したが、連隊長は「行軍隊は必ず田代に到着している」と回答。書記が「それなら、市が人夫、消防夫を派遣して捜索する」と言って立ち去ると、連隊長もようやく悟ってこの日の夕方、救援隊を派遣した。救援隊の将校はある遺体を発見した際、「死後20時間もたっていない。捜索がもう1日早ければ」と緩慢な捜索に遺憾の意を示した〉

遭難は避けられないものだったのか?

 新聞・日本も遭難発覚直後から軍に批判的だった。2月9日から「大惨事と責任」という記事を3回続きで連載。「200の将卒をこのように惨死させたのは、23日から24日にかけての大吹雪と厳寒に相違ない。人力では防げなかった天災に遭遇したためといわれる。しかし、その天候は予想できなかったもので、遭難は人力では避けられないものだったのか」と追及。

 萬朝報同様、原因を並べ、最後にこう書いた。「今回、生存は将校が多く、兵士は少ない。それは兵士が自分の身を忘れて死に至るまで将校を保護したためではないか。生存者や遺体の発見の場合にも将校に厚く兵士に薄い感がしないでもない」。

 筆者の「三浦生」は自由民権運動家の医師で、夏目漱石の最後の住居「漱石山房」の建築主とされる三浦篤次郎のようだ。主張はもっともだったが、将校と兵の関係は違う形で利用されてしまう。