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 2月14日付東奥は「興津大尉の死状(しにざま)」で次のように書いた。「興津大尉は一兵卒の膝を枕にして死んでいたが、その兵卒は大尉の従卒で、大尉への切なる思いから、死に瀕しながらなお介抱し、ついに共に倒れたと知られる。主従その死を共にす。将校と兵卒の間柄がいかに親密か見るべきで、実に美談として後世に伝えるべきだ」

興津大尉の遺体が搬送される様子(「週刊20世紀」より)

 この「美談」は兵士が誰か、2人の姿勢はどうかなど、情報が錯綜しながらまとめられていく。それらを掲載したのが同年6月1日付からの東奥の「凍難隊美談」だ。

 初回は「死に臨んで(なお)隊長を(せい)す(見舞う)」で山口少佐を介抱した一等兵の話。2回目「死して猶上官を庇護す」が興津大尉と元従卒の軽石二等卒のエピソード。2人については救援隊の将校が撮影した写真が新聞などで話題になった。

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寄り添って死んだように見える軽石二等卒と興津大尉の遺体。この写真は、遭難事件における「美談」の筆頭として話題となった(『青森歩兵第五連隊雪中惨劇の記録写真特集』より)

 以後(3)戦友の屍を負うて行く(4)勇躍水に没して血路を開かんとす(5)貴重の器具捨つべきにあらず(6)死して猶その部下を愛す――と計8回連載。

 いずれも「忠君愛国」の基盤の上に滅私奉公、上官と部下の相互信頼、戦友間の友情など、軍国主義下の美学を教訓とした内容で、見出しや順番を替えて同年7月刊行の『遭難始末附録』に掲載される。

演劇、映画、軍歌…「雪中行軍神話」として大人気に

 そうしたドラマに興行関係者が飛びつく。2月18日付都新聞の「投書一覧」には「八甲田山の慘事」として「俗極まる浅草公園の見世物中、やや学術的に近いものは水族館、電気館、海底旅行、珍世界などなり。また、来たる19日より八甲田山の雪中惨事を小林習古氏の筆にて『ジヲ(オ)ラマ』に表し、広く観覧に供する由(余白拝借生)」という広告が掲載されている。

 さらに2月19日付東朝「楽屋すずめ」には、東京・赤坂溜池にあった演伎座で「松永憲太郎一座が例の『雪中行軍』を演じようとて松永は実地視察のため青森へ赴いたという」という記事が。

 それどころか、丸山泰明『凍える帝国 八甲田山雪中行軍遭難事件の民俗誌』によれば、日本橋にあった真砂座では2月4日から「雪中の行軍」三場を上演。電気の作用で吹雪を見せ、雪中の大道具も苦心して造り上げた大仕掛けだった。大入り満員で、台本作者の部屋では行軍凍死者の霊を祭って供物を供えた。劇中では「兵士が服を脱いで隊長に着せる」場面が見せ場で観客に大受けだったという。