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明治天皇も事態を憂慮

 訓練中の大量遭難は当時の軍中央にとっても大きな衝撃だった。しかし、児玉陸相の対応は素早かった。捜査が本格化したばかりの1月31日、善後委員会を設置して対応を協議させる一方、凍死者は全て戦死扱いとし、遭難した場所に官費で埋葬するなどの方針を示した(『新青森市史 通史編 第3巻(近代)』)。

 明治天皇も事態を憂慮。同じ日に侍従武官を青森に派遣して遭難現場の視察や生存者の慰問をさせ、菓子料を下賜(かし)した。以後も天皇・皇后は遺族に祭祀料を下賜。皇后からは手足を切断した生存者に義足、義肢が下賜された。国民の徴兵制への懐疑を防ぐため、早期に問題の鎮静化を図る必要があったとされる。

責任論にフタ、「美談」に転化された

 実は当時、軍はもう1つ、頭の痛い問題を抱えていた。「馬蹄銀事件」「分捕事件」と呼ばれ、2年前の1900年に清(中国)で起きた義和団事件の際、第五師団(広島、師団長・山口素臣中将)を中心とする派遣部隊が清の通貨・馬蹄銀を横領したという疑惑が浮上。捜索が行われるなど、新聞紙面を騒がせていた。

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 捜索が継続中の2月12日には日英同盟成立が報じられる一方、伊藤博文・元首相が進めた日露協商はご破算となり、対ロシア戦争が決定的になっていた。それで打ち出されたのが、遭難の最大の原因は天候悪化だったとして責任論に蓋をする代わりに、遭難劇を「軍国美談」に転化させる戦略だった。

遭難事件と馬蹄銀事件を組み合わせた風刺画(二六新報)

 2月7日付東日は「山口少佐の死體(体)」の見出しで「いまは責任を論じて屍に鞭打つの悲惨は忍びない。少佐の遺体はさる3日、火葬を行い、北の果ての一片の煙と化したという。万籟(ばんらい)寂す、責任従って消ゆ」と少佐の責任論を不問とした。