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連載明治事件史

199人が死亡した史上最悪の遭難…「八甲田山雪中行軍」で一体なにが起きていたのか?「睡魔に襲われたように次々と昏倒」「追い詰められたあまりに…」

八甲田山雪中行軍遭難事件 #1

2024/01/24
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たとえ悪条件が重なっても問題なく踏破できるとの判断

〈【予行行軍】田代行軍の難易を試みるため1月18日、第二大隊・神成(文吉)大尉指揮での中隊編成(当時は約140人規模)で田代街道の小峠(現青森市)まで行軍を実施。行きは約4時間、帰りは約2時間で踏破。天気は晴れで積雪は3~5尺(約90~150センチ)。

 この結果、屯営と田代間は1日の行程で、もし悪条件が重なって田代に到達できないとしても、途中で露営(野外でテントを張るなどして寝ること)すれば十分との判断が下された〉

〈【部隊編成】参加人員は将校・見習士官12人、準士官・下士官42人、兵士156人の計210人。第二大隊の各中隊から選抜された兵による4小隊から成る1中隊と特別小隊があり、中隊長は神成大尉。そこに第二大隊長の山口(しん)少佐と軍医ら大隊本部が加わっていた〉

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〈【服装】略装=兵士は小倉(木綿)の服に防寒外套、手袋、(わら)靴。昼食と糒(ほしいい=干した米のこと)3食分、餅6個を携行した〉

第二大隊長の山口少佐(右)と、中隊長の神成大尉の肖像写真(『六十周年誌』より)

出発日は普通の天候だった

 1月23日午前6時30分、行軍隊は営庭に集結。神成大尉は小隊長を集めて行軍計画の概略を示した後、全員に命令。午前6時55分、2列縦隊で出発した。「この日は青森での冬季の普通の天候で、最低気温氷点下6度。風雪も激しくなかった」(『遭難始末』)。

 ただ、24日付東奥は、出発済みの三十一連隊の行軍計画は詳しく載せているが、五連隊の出発は報じていない。

予想外の大吹雪……出発から3日たっても帰ってこなかった

 1月25日付東奥には「昨日の大吹雪」の見出しで「一昨夜来の風雪、昨日に至ってもやまず、寒気もまた至って厳しい」とある。天候が激変する中で事態は大きく動いていた。五連隊の異変を最初に報じたのは東京朝日(東朝)のようだ。 1月27日付に短い記事が見える。

 兵士雪に阻まる
 

 26日青森特発 さる23日、歩兵第五連隊第二大隊二百余名、1泊の予定で八甲田山のふもとである田代温泉に行軍したが、大雪のためいまだに帰営していない。救援のため食物を携え、八十余名の兵と筒井村の人民百余名がけさ同地域に向かった。

「まさかこれが全滅の第一報になるとは」

『朝日新聞社史 明治編』(1995年)はこの記事を引用して「青森からの通信員の電報が載った。まさかこれが大隊全滅の第一報になるとは誰も思わず、どこかで難を避けているのだろうぐらいに考えられていた」と書いている。

 ただ、不思議なのは、ほぼ同文の記事が28日付河北に載っていることだ。あるいは、元は通信社配信の記事だったのでは、という疑問が生まれる。当時は帝国通信社と電報通信社(現電通)の並立時代だった。