「全員凍死」が大々的に報じられた
そして、29日付で東奥は遭難を大々的に報じた。当時の新聞記事らしい感傷的な書き出しで始まる。
噫(ああ)至慘(惨)!至慘!! 雪中行軍隊の大椿事 全軍貮(二)百餘(余)の凍死
歩兵第五連隊第二大隊山口大隊長以下210名の雪中行軍隊はさる23日、田代村に向かって1泊行軍として勇ましく出発して以後3日、何の消息もないことから万一を気遣い、同連隊から救護隊を派遣。神成大尉ほか2名は途中でほとんど凍死しそうな惨状に陥りつつあることは昨日の紙面で報じた。
その他の雪中行軍隊については、わずかに生存の希望をつないでその後の知らせを待ちつつ、誰もが無事を祈ったが、希望はついに水泡に帰した。昨日になってついに全員凍死の惨事の悲報をもたらした。ああ、ああ、わが東北の健児二百余名は無残にも積雪のうちに前途有望の身を埋めて終わったか。天下の惨事に加えるのにこれほどのものがあろうか。
以下第一報となるが、重複するため飛ばして「其(そ)の詳報」の冒頭を、前置きを外して見よう。軍人が「1~2歩動いた」など、首をひねるような点もあるが、後にこの遭難の象徴的な姿として銅像になり、映画でもハイライトとなる生存兵士発見の場面だ。
深い雪の中に軍人が直立したまま…
一昨日、三神(定之助)少尉が引率した救護隊は幸畑と田茂木野(いずれも現青森市)で募集した人夫とともに田茂木野を出発。田代を指して向かったが、風雪がひどいだけでなく寒気がすさまじく、摂氏氷点下10度まで下がるほどのため、救護隊も非常な困難を極め、田茂木野から約2里半(約10キロ)の大滝平付近まで来ると、凍傷にかかる者が相次ぎ、1名などはその場に倒れたようなありさまだった。
この時、先に進んでいた人夫が百間(約180メートル)向こうに人らしいものが佇立している(たたずんでいる)のを認めたが、1~2歩動いたのを見て初めて軍人だろうと察して大声を上げながら進むと、その軍人は直立したまま身動きもせず目をキロキロさせただけだった。この時、後に続いた軍人も来て大声で激励すると、初めて息を吹き返して言葉を発するようになり、パンをかんで口に入れると食べることができた。その時、彼の話から初めて全軍の消息を知ることができた。彼が後藤房之助伍長だった。
記事は後藤伍長の証言による行軍の経過に進むが、ここからは再び、『遭難始末』と『六十周年誌』の記述を要約する。内容は大隊本部から行軍に参加した倉石一大尉ら生存者の証言を基にしている。