新型コロナ感染症の出現で、私たちの生活は一変した。医師で作家の海堂尊さんは「『衛生学』を基本にして、感染症と闘ってきた明治時代の医師に学ぶことがある」と語る。
◆ ◆ ◆
「私たちにとって、明治時代の医師たちの物語はまさに温故知新」
明治時代に日本の衛生行政を樹立した2人の巨人、北里柴三郎と森鷗外の栄光と蹉跌を描いた『奏鳴曲 北里と鷗外』(文藝春秋)を上梓した海堂尊さんは、執筆の過程で多くを知ったという。
「感染症は、いつの時代も人類に襲いかかってきます。コロナ禍に苦しむ現代の私たちにとって、明治時代の医師たちの物語は、まさに温故知新です。当時、コレラが流行した際に新政府は、屈辱的な経験をします」
明治10年7月、清で発生したコレラが、長崎に伝播した。内務省衛生局は、英国船の乗員への検査を実施しようとするが、英国公使に猛反対され、検疫を実施できなかった。不平等条約を締結していた明治政府は、外国船を取り締まれず、結果、コレラの大流行を招いてしまう。
明治12年のコレラ大流行は患者16万人、死者は10万6000人に達した。
「このことが不平等条約を改正しようという大きな気運になりました。その後、後に北里の師となるローベルト・コッホがインドのカルカッタでコレラ菌を発見し、そのコレラ波が日本に到達したのが明治18年。長崎に上陸したコレラを迎え撃ったのが北里です。この時にコレラ菌を日本で初めて確認した北里は、衛生局の英雄になり、ドイツ留学を勝ち取ります」
ドイツに留学した北里は、コッホ研究所で、破傷風菌の純培養に成功し、血清療法を確立させるという、世界的な業績を上げる。
「ベルリンで、東京大学医学部の先輩の鷗外と再会します。鷗外はコッホ研究所に所属し、1年間一緒に過ごしました。この時、鷗外は北里に実験の初歩の手ほどきを受けています。つまり、鷗外は医学的には北里の弟子でもあるのです。
衛生学を習得した2人は、北里が内務省、鷗外が陸軍軍医の道に進みますが、国民と陸軍兵士を感染症から守る、という同じ職責を背負うことになったのです」
北里は帰国後、福沢諭吉らに支援されて、私立伝染病研究所を設立する。その後、香港で蔓延したペストの現地調査へ赴きペスト菌を発見。日清戦争後には、コレラの制圧に貢献するなど、日本の近代医学の父と評される実績を上げていく。