最後の遺体発見は約4カ月後だった
こうして未曽有の軍隊の大量山岳遭難が明るみに出た。五連隊の津川連隊長は行軍隊が田代に到着済みと楽観視。26日になってようやく救援隊を編成したが、悪天候もあって対応が遅れ、27日になって田茂木野から先に進み、凍りついて直立した後藤伍長を救助した。
神成大尉は約100メートル離れた雪の中で発見され、蘇生措置が施されたが息を吹き返さなかった。大規模な捜索が行われ、将校、下士官、兵士らが生存あるいは死亡で発見された。
最後の遺体発見は出発から約4カ月後の5月29日。救助されて病院に収容された17人のうち、全治したのは倉石大尉(ただ1人、東京で買ったゴム長靴を履いていたという)ら3人だけで、凍傷などで死亡したのは5人だった。
210人中199人が死亡
その1人、山口少佐は当初から新聞に「死亡」と書かれていたが、救出後の2月3日夜、死去した。小説や映画では拳銃で自決となっているが、凍傷で手指が動かせなかったとして否定する見方が強い。当時の児玉源太郎陸相らの指示による殺人説もあるが根拠はない。
2月4日付東朝は少佐の臨終の模様を記事にしている。
「一隊の全滅は自分に責任があると深く覚悟した様子だったが、(明治天皇の)侍従武官が来着し優渥(ゆうあく=ねんごろの)なる思し召しを受け、恩賜の(天皇から下された)菓子料を拝受するに至って一層の感慨に耐えないようで、それから俄然容体が悪化し、ついに瞑目した」
結局、参加210人中199人が死亡する大惨事となった。