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叫び合い、殴り合って凍死を防ぐしかなかった

〈露営地では糧食、燃料を求めるに手段がなく、兵士の心身もしぼみ衰え、ほとんど常識を失った。食欲はなく、暖を求めることもなく、ただ呆然として睡魔に襲われ昏倒する者がどれだけあったか。互いに戒め合って叫び合い、殴って凍死を防ぐことしかできなかった。

 午後11時ごろ、倉石大尉の一団は人数が少なくなって今後が危険だとして、かすかに聞こえる声を頼りに、胸に達する雪をついて約1時間後、山口少佐の一行と合流した。山口少佐はそれまでに3度昏倒。部下の救護で蘇生したが、露営地に着くとまた人事不省となった〉

新聞に掲載された山口少佐の似顔絵(奥羽日日)

 こうして3日目が暮れた。それでもまだ前途に明かりは見えない。

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4日目 相次いで倒れていく

〈連日の飢渇、激動と不眠は身体を著しく衰弱させ、兵士らの顔は憔悴し、心はぼんやりして夢幻の間にあるよう。午前1時ごろ、点呼すると約30人だった。倉石、神成両大尉以下十数人がやや活気があり、両大尉は夜明けを待って出発することに決した。

 山口少佐は起き上がれないので、兵士を付けて出発した。午前7時半ごろ、倉石大尉が山腹を匍匐前進して「賽の河原」の東南に到達し、偵察したが、進むことができない断崖。だがこの時、空が晴れ、遠くに青森湾が一望できて一同は喜んだ〉

〈午前11時ごろ、また吹雪になった。ここで神成大尉は進路を左に求め、倉石大尉は右に。再び会うことはなかった。山口少佐を含めた倉石大尉の一行は賽の河原の西北端に達した時、将校ら倒れる者が相次ぎ、わずか7~8人に。

 駒込川の渓谷に陥り、流れに沿って下ったが、両岸とも崖で進むことができなくなり、そこを死に場所と定めた。神成大尉の一団6~7人は幸い帰路を発見したが、大滝平付近まで来てついに倒れた〉

 遭難発覚後の1月31日付河北の記事「神成大尉臨終の一語」によれば、神成大尉の一団は4人になり、大尉は最後、後藤伍長に「既に兵を殺した以上、自分は生きたいとは思わない。おまえは勇気を出して田茂木野に出て人夫を集め、死骸を運ぶことに努めよ」と言い聞かせたという。