1ページ目から読む
6/6ページ目

解剖の結果、死因は窒息と出血によるものとみられた

 遺体の解剖は東京帝大(現東大)で行われ、結果は各紙に載った。石渡安躬『斷獄實録』(1933年)には詳細な解剖記録が収録されている。その中では、死因は首を絞められたことによる窒息と、首を切られての出血の合同作用で、被害者は生前、男と関係しているが、それが暴行によるものか合意のうえかは不明。遺体は養父に引き取られ、すぐ火葬に付された。戒名は「情心院妙艶日厚大姉」(14日付都)。

13日付読売は「犯人像」を次のように推理した。

1.木下と同じ監獄にいて事件直前に出獄した人物
2.家庭不和に関係した人物
3.単なる暴行目的
4.木下が入獄した事件でお艶が秘密を握っていると見られた

 素行不良の若者を中心に嫌疑者が取り調べられたが、いずれも「シロ」とされ、早くも14日付都は「犯人は不明なり」の見出しを立てた。その後も、刑事を名乗った男や、銭湯で三菱ケ原の話をしていた男などが怪しいとして拘引されたが事件とは無関係と判明。

ADVERTISEMENT

 17日付時事新報は「手掛皆無(てがかりかいむ)」の見出しで、警視庁の刑事の「毎日のようにおたねやお清ら、同じ参考人ばかり引っ張り出して調べているいまの状態だもの、どうして目星がつくものか。お察し願います」という談話を掲載した。

「手掛皆無」の見出しを付けた時事新報

「ここまでわかっていながら迷宮入りするということは…」 

 翌1911年5月22日付東朝には「疑問の警察(続)」としてお艶殺しのケースが取り上げられている。三菱ケ原の現場で警察の盗難届1枚が発見され、筆跡から麻布署の警部補にただすと、早稲田大の学生に書式例として渡したと言う。学生を拘引して厳しく調べたが自供しない。そのうち、麻布署の刑事が「自分が警部補から受け取ったが、現場に行った時に鼻をかんで捨てた」と証言して幕となったという。捜査に問題があったことは否定できないようだ。

「疑問の警察(続)」として、お艶殺し事件の警察の捜査に疑問を投げ掛けた東京朝日

 森長英三郎『史談裁判』(1966年)は「ここまで分かっていながら迷宮入りするということは、今日の知識では考えられないことだが、なにぶん科学的捜査はゼロ。角袖刑事=当時の刑事は和服に角袖の外套(がいとう=コート)を着ていた=の時代だからやむを得ない」と書いている。こうして事件は迷宮入りした。

 事件が再び動き出したのは、それから10年後のことだった。