殺された若い女性を「美人」にしたがる当時の“風潮”
東日の初報は「美人というほどにはあらねど」(原文のまま)としたが、12日付で國民は「三菱原に美人の屍體(死体)」、萬朝報は「三菱原の死美人」を見出しにとった。本文中にはそれに該当する記述がないが、殺された若い女性を「美人」にしたがる当時の“風潮”が反映されているようだ(「美人の首なし死体」という表現もあったという)。
『警視庁史第1(明治編)』も発見段階で「20歳ぐらいの美人」と記述している。この時点では被害者と加害者の関係は否定され、警視庁は偽刑事に呼び出されたことを重大視して捜査を進めた。13日付萬朝報も「お艶はおとなしい無口な女で、男の話などすると逃げるぐらいうぶでしたから、男ができて、そのために殺されたなどということはないと思います」というお艶の伯母の談話を載せている。
養母・おたねが最初に疑われた
嫌疑者は次々登場した。最初に疑われたのは養母おたね(「為」「タメ」と誤記した新聞も多い)。12日発行13日付報知夕刊は「家庭の不和」の小見出しで書いている。同紙は11日朝に警視庁に行ったのはおたねだったとして、「(捜査当局は)そのまま警視庁に留め置いて帰宅させず、ひそかにおたねとお艶の関係について協議を重ねている。これは、あるいはお艶が殺害される前夜、面白くない家庭の不和に角突き合わせた揚げ句、不詳の男に誘い出されて今回の惨劇となったとの説もある」とした。うわさのたぐいのようだが、同じ報知は「冷遇せらる」の小見出しで家族関係について概要を次のように記述する。
〈被害者お艶の家庭は養父、後妻、その連れ子との4人暮らしだが、とかく家庭内に風波が絶えず、お艶は前の養母と死に別れ、後妻おたねが乗り込んでからは、見るもいじらしい過酷な扱いに涙の乾くひまもなく奉公に出た。おたねはお艶が憎くてたまらず木下忠正に前科があるのも承知で無理にお艶を嫁がせた。木下が入獄したため、お艶は泣く泣く家に戻り、針のむしろの苦しさをじっと我慢していたが、当夜は何かで言い争い、お艶が機嫌の悪いおたねの顔から目をそむけていたところに怪しい男が入ってきて誘い出した。〉
つじつまの合わないところも強引に疑惑を養母に結び付けている印象だ。おたねは12日中に帰宅を許されたが、13日付萬朝報の記事で「私がお艶を虐待したとか言って疑いをかける人もあるようですが、そんなことをしてどうして夫が黙っていましょう。ものの黒白は最後には分かると思います。なさぬ仲とは言っても、親子と名の付くうえは決して憎いとは思いません」と涙ながらに語った。
夫の酷評を伝える新聞も
一方、同じ日付の時事新報は「不行跡な木下忠正」という小見出しの記事で、木下は「3度まで妻を替えたほどの男で、彼を知るものは誰も快く言葉を交わすことはないという」との酷評を伝えた。
この年1910年は条約が調印されて日本が韓国を併合。明治天皇暗殺を図ったとして思想家・幸徳秋水らが検挙される「大逆事件」が発生していたが、世の中はおおむね平穏だった。「美人の殺人事件」で現場周辺は大騒ぎ。13日付東京朝日(東朝)は、不鮮明だが「現場附近の人出」の説明が付いた、人でごった返している様子の写真を掲載。
同日付時事新報は「三菱原の賑(にぎわい)」の小見出しで「三菱ケ原の現場は警視庁をはじめ、各署の刑事らが犯人捜査上の必要から、12日も入れ代わり立ち代わり出向いて検分する一方、朝からいい天気でもあり、通行人がさまざまに寄り道して見物する姿が非常に多く、夕刻まで絶えずにぎわった」と伝えた。同日付都新聞(現東京新聞)も「物見高い野次馬連がゾロゾロと見物に押し寄せ、付近は時ならぬ雑踏を極めた」と書いた。