「三菱ケ原のお艶殺し」は女形役者くずれの「ワル」が人妻をたらし込み、別れ話のもつれから殺したとされる殺人事件。被害者の「お艶」は被害者は幼いころから養女に出されるなど、苦労を味わったあげく、結婚した相手は犯罪に手を染めて収監。のちに愛し合った男も犯罪常習者で、最後は丸の内の原っぱで男に首を絞められ、ノドを裂かれて捨てられた。相手の男の供述からは、お艶が人生に絶望していたことがうかがえる。
事件はいったん迷宮入りとなり、10年後、明治から大正に時代が代わった中で、別件で収監中の男が自供して解決した。そんな、どうしようもない男による薄幸の女の殺人がなぜ明治時代屈指の著名事件になったのか。理由の1つは、のちに文豪と呼ばれる作家・谷崎潤一郎が同名の小説『お艶殺し』を事件の数年後に発表。舞台に何度も取り上げられたことのようだ。しかし、はたしてそれだけの理由で事件が当時の人々の心を捉えたのだろうか――。
今回も当時の新聞記事は、見出しはそのまま、本文は現代文に書き換え、適宜要約する。文中いまは使われない差別語、不快用語が登場するほか、敬称は省略する。(全2回の2回目/前編を読む)
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拳銃強盗から足がついた、10年前のお艶殺しの犯人
1910(明治43)年に発生し、一度迷宮入りした「お艶殺し」事件が再び動いたのは10年後、時代が大正に変わった1920(大正9)年7月だった。東日が13日付で「十年前の殺人犯 警視廰に捕は(わ)る 三菱ケ原のおつや殺 拳銃強盗から足がつく」が見出しの特ダネを載せた。
満都の耳目を聳動(しょうどう=そばだたせる)させた明治43年11月、三菱ケ原でのお艶殺し犯人の捜査で、警視庁は全力を挙げたが、当時何ら手掛かりが得られず、10年後の今日に及んだが、思いがけず犯人の有力な嫌疑者を取り押さえた。犯人はさる3月、浅草区(現台東区)千束町2丁目、芸者屋「春の家」方へ拳銃強盗に押し入り、騒がれて逃走したが、警視庁・前田警部の部下の刑事に捕らえられた。
指紋対照の結果、お艶殺し犯人と符合。厳重な取り調べの結果、自供に至ったため、刑事課は沸き立ち、現在極秘に証拠収集に尽力しつつある。犯人は下谷区(同)二長町3、元俳優、強・窃盗前科5犯、渡邊乙松(40)といい、お艶殺しの後、強盗・殺人未遂犯として巣鴨監獄に入獄。8年間服役したという。
日本では1905(明治38)年、逮捕者からの指紋採取が始まり、お艶殺し翌年の1911(明治44)年に警視庁刑事課に指紋係が置かれて指紋照合による捜査が本格的に始まっていた。東日は22日付でも続報を伝えた。見出しと、一報との重複を避けた記事冒頭は次のようだ。
十年目に捕つ(っ)た乙松 お艶を殺すまで 犯人は元俳優で強窃盗前科八犯 證據(証拠)は着々眞(真)犯人の裏書をした
渡邊乙松(41)は俳優あがり(故山口定雄氏の門弟で芸名・松島薫)で強・窃盗8犯の凶賊。さる1日、強・窃盗の犯人として警視庁に検挙され、取り調べの結果、ついに10年前に犯したお艶殺しを自白するに至り、20日、真犯人と決定。昨日(21日)午前9時、令状を執行され、東京地方裁判所検事局に護送された。
第一報より前科が3つ増えているが、記事は続いて「犯人捜査の総指揮官・正力刑事課長」の談話に移る。のちに読売新聞の社長となる正力松太郎のことだ。