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強盗・窃盗を繰り返す犯罪常習犯の男が、お艶殺しも自供

 正力松太郎による談話「犯人捜査の総指揮官・正力刑事課長」によれば、前年の秋ごろから暮れにかけて強盗・窃盗の被害が頻々として起こるので捜査を続けていた。7月1日、乙松を小石川区下冨坂町の愛人宅で検挙して調べたところ、一連の事件の犯人と判明。前年秋から強盗5回窃盗33回を犯したことを自供した。

警視庁幹部当時の正力松太郎(『伝記 正力松太郎』より)

 続いて余罪を追及すると、その年の春に発生した下谷区入谷町の夫婦殺しと10年前のお艶殺しを供述するに至った。だが、夫婦殺しはでたらめの供述で、指紋が合致せず、最後には否認した。一方、お艶殺しは自供内容はもちろん、証拠も歴然となってきたという。東日の続報はさらに殺害までの経緯の自供内容を報じている。その概要は次のようだ。

〈お艶が谷子爵の小間使いだったころ、乙松は自分の妹(故人)と裁縫仲間だったお艶と知り合った。思いをかけるようになったが、お艶は木下という内縁の夫がいる身で応じる様子がない。犯行当日、乙松は、木下が刑事事件に関わっているのを利用。刑事と称してお艶を呼び出し、麻布区(現港区)今井町のそば屋でしきりに口説いたが、お艶は強くはねつけた。乙松はさらに執拗に追跡し、犯行現場の三菱ケ原に至ってお艶を暴行したうえ絞殺。短刀で帯を切って、その間に収めてあった財布から現金2円70銭(現在の約9600円)を奪い、その足で吉原遊廓で遊び、一夜を明かした。

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 それから3日目に浅草・小島町の民家に強盗に押し入って以来、東京周辺各所を荒らし回り、その年の12月10日、浅草・千束町の銘酒屋(実質的な売春宿)に押し入った。女中3人を縛って猿ぐつわをはめ、階上階下に石油をまいて放火。逃走しようとしたところを象潟署の巡査に発見され、短刀で渡り合ったが、ついに捕縛された。強盗・殺人未遂・放火の罪で懲役15年の刑に処され、小菅監獄で服役。前年8月、減刑で出獄した。再び市内各所を荒らし、5月6日、浅草公園六区の芸妓屋に短銃を持って押し入り、家人を脅迫して金品を強奪したのが手がかりとなって逮捕に至った。〉

お艶と乙松(読売)

不審な点がいくつもある犯行の筋書き

 同じ日付の読売は「監獄に入つて居るのを 知らずに大捜索」の見出しを立てた。さらに三菱ケ原の現場に遺留されていた紺足袋からアシがついたと書いているが、検証調書に記載された遺留品は白足袋しかない。それにしても、なぜお艶は旧知の乙松の誘いを断らなかったのか、一緒にそば屋に入ったのはどうしてかなど、ちょっと考えただけでも不審な点がいくつもある。

 しかし『警視庁史第1(明治編)』までもが大筋でこの筋書きを認めている。同書は事件解決のきっかけにも触れている。「ある日、乙松は証拠捜査のため、刑事に連れられて犯行現場に出かけた。帰り道、三菱ケ原の殺人現場付近を通りかかると、ちょっと立ち止まって、瞑目して念仏を唱えた。敏感な刑事はこの些細な動作を見逃さなかった」。少しできすぎな気がする。