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乙松が残していたとされる「くどき」への違和感

 興味深いのは小沢信男『犯罪紳士録』(1980年)が乙松について書いていることだ。「夢か現(うつつ)か恐ろしや 世に殺人の大罪を 帝都に長くうたわれし お艶殺しの犯人は その名を渡邊乙松と 世の人々に知れ渡る……」。同書によれば、これは乙松自作の「くどき」だという。

「くどき」とは、自由民権運動の一環として一世を風靡した演歌の楽曲の中で、心情を吐露した語りを意味するのだろう。「明治期はかの毒婦伝をはじめ、ジャーナリストが当人になり替わって世に悪名を流布したものだが、大正期には犯罪紳士の自己宣伝が顕著になる」「“民衆の時代”のこれも一側面か」と同書。乙松の「くどき」はこうしめくくられる。

「かの三菱で見し月も 今宵の月も変わらねど 因果は巡る小車の いまは獄屋に月を見る 幽冥境を隔つれど 草葉の陰に亡き艶が 今宵の月を見つるらん」

『犯罪紳士録』は「しかし、乙松自作の『くどき』は惜しくも類型的だった」と書く。それが広まらなかった理由だというのだろうが、たぶんほかに複数の理由がある。1つは、実際にはお艶のことを真剣に思いやっていたとは思えない乙松が、こんな「くどき」を歌い上げたことへの違和感。

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 そしてもう1つは時代の違いだ。この「くどき」は明らかに、この「明治事件史」の連載で取り上げた「野口男三郎事件」から生まれた「夜半(よわ)の追憶(おもいで)」、一名「男三郎くどき歌」のもじりだ。歌詞自体「嗚呼(ああ)世は夢か幻か 獄舎(ごくや)に独り思ひ(い)寝の……」(『夜半の追憶』)のパクリといっていい。

 しかし、時代は同書が述べるように変わっていた。ロシア革命に端を発してシベリア出兵が行われ、労働争議、小作争議が多発。「くどき」からロマンチックな物語を読み取った明治の人々のような感性は「大衆の大正時代」の庶民からは失われていたに違いない。