スリ(掏摸)という犯罪はあまり耳にすることがなくなった。2022年1~12月の警察庁犯罪統計では、認知件数1112件、検挙件数521件と、それぞれ窃盗全体の0.3%と0.4%にすぎない。
しかし、いまから110年以上前のこの国は「スリ天国」とさえいえる状態。犯罪でありながら職人技術の粋のように捉えられ、「スリは文明開化の象徴であり官許にすべきだ」という、驚くべき「スリ文化論」まであった。
今回取り上げるのは、スリの大親分として名高い「仕立屋銀次」(本名・富田銀蔵)の栄光と没落の物語。全国に子分1000人、預金は60万~70万円(現在の約21億~25億円)といわれ、「華族並みの生活」とされた。子分を「社宅」に住まわせて毎日計画を立て、列車の車内を中心に働かせた。“収穫”は台帳に記入するなど、手口は「スリ株式会社」。銀次はスリを企業化した第一人者だった。
警察とも“持ちつ持たれつ”の関係を築き、一時は飛ぶ鳥を落とす勢い。しかし、警察が摘発を始めると、2度にわたって獄中に。資産も「妻」も失い、晩年は寂しい生活だった。半生は実録小説になってベストセラーに。舞台化もされて話題を呼んだ。
摘発は、薩長などの藩閥政治に対する批判に利用された面も否定できないが、時代の転換期であり、江戸の名残りを引きずった「栄光の明治」の挽歌という色彩もある。今回も当時の新聞記事は、見出しはそのまま、本文は現代文に書き換え、適宜要約する。文中、いまは使われない差別語、不快用語が登場するほか、敬称は省略する。また、見出し以外は「スリ」と表記する。
「ふと気づけば、持っていた懐中時計をかすり取られているのに驚いた」
「仕立屋銀次」の名前は明治30年代半ばまでには、警察だけでなく一部の新聞記者にも知られていたようだ。例えば1897(明治30)年7月17日付東京朝日(東朝)にはこんな記事が載っている。
金時計持主に還る
昨日午後、日本橋区(現東京都中央区)亀井町8番地、パン店経営、伊藤美喜蔵(42)が賽日(閻魔参り=薮入り、1月16日と7月16日が多い)の景況を見ようと浅草公園へ出かけ、そこから上野へ回って鉄道馬車に乗り、帰途に就く途中、下谷警察署前に来た時、ふと気づけば、持っていた金側無双(表も裏も金側)の懐中時計をいつの間にかすり取られているのに驚いた。飛び降りて下谷署へ訴え出たことから、大門巡査が馬車内に行って乗客を調べようと見回した中に、下谷区仲御徒町4ノ22、仕立屋銀次の子分、般若の幸吉こと、埼玉県大里郡熊谷町(現熊谷市)字石原町21、池田孝吉(21)がいた。きっと彼の仕業だろうと取り押さえて調べると、時計を所持していたので美喜蔵に返し、孝吉は拘引した。
ほかにも仕立屋銀次の子分の犯行とされるスリ事件が報道されていた。1906(明治39)年5月5日付読売には「掏摸の取締」という記事が見える。
地方からの上京者が多いことから、スリが出ることを心配して4月末以来、各署管内のスリを検束。親分株の銀次らを召喚して「縄張り区域内でスリ被害がある時は厳重に処分する」と伝えたという。