弁護士でのちに衆院議員となる齋藤二郎は「法律新聞」1905年8月30日号の「掏摸の内幕」という文章で、あるスリの親分は刑事(デカ)を「小供(こども)」と呼んでいた、それは刑事が「オヤジ、オヤジ」と言って金品をねだっていたからだと書いている。銀次が高言したように、すり取られた貴重品も、親分に頼めば警察に送り返してくる仕組みができていた。「掏摸物語」は次のような例を挙げている。
数年前にある地方裁判所長が会同の帰途、例により静岡辺で大事な大事な金色時計をすられた。さあ大変と正直にもこれを静岡県警察へ尋ね合わし、こっちは堂々たる所長、何をおいても探し出すだろうと待っておったところが、来た返事はどうだ。「ご依頼の時計、金何十円お出しになれば探し出さしむべく候。年月日、静岡警察署長、警視何の某」と麗々しい公文書が来た。ドーだ、驚いたろう。天下、どこの警察が腐敗したとて、これほど図々しい所があるか。
この時代の警察・検察には、手先から情報を得るだけでなく、留置場に送り込んで収監者を自白に誘導するなどの捜査手法があり、スリはそうしたスパイにも使われた。
「このいい機会を利用して市内スリの一大検挙を行うべきだ」2年半後の急転直下
銀次が豪語したように、その程度の「大検挙」では深い癒着の根源は除去できなかったようだ。それからまた2年半の時が流れた。最も早く紙面に載ったのは1909(明治42)年6月24日発行(25日付)の報知の夕刊だったようだ。
しかし、見出しは「血判して放免を願ふ(う) 赤坂署の掏摸檢擧」でピントがずれた内容。対して25日付東京日日(東日=現毎日新聞)は「掏摸の大檢擧」と主見出しはほぼ同じだが、脇見出しは「司法警察の痛快事 赤坂署長の大英断」で、同紙のキャンペーン報道の始まりだった。
さる21日午後7時ごろ、赤坂区(現港区)高樹町20、前新潟県知事・柏田盛文氏が、所用で麻布におもむき、広尾橋から電車に乗って青山一丁目に向かう途中、帯の間に挟んでいた公爵・伊藤博文氏から記念に贈与された金時計をすり取られた。帰宅後、気がついて、一生の記念品を失っては残念と、すぐ赤坂署に届けた。氏は高齢で、そばにどんな男がいたか分からなかったが、すり取られた場所は(青山)墓地下付近の、線路が折り曲がって動揺が最もひどい辺りだったと語った。
届けを受けた警部・本多留吉氏は本堂署長に上申。署長は「従来どんな事情が警察側の一部と彼らスリ仲間の間にひそんでいたかは知らないが、断じてこそくな手段を取らず、このいい機会を利用して市内スリの一大検挙を行うべきだ」と勇ましい意気込みだった。刑事、巡査はそれぞれほかに任務があることから、今回は応援に回し、最もスリたちに接近することが少ない常務巡査に捜査に当たらせ、やっと23日朝になって、犯人は仕立屋銀次こと富田銀蔵(44)の子分だろうと突き止めた。
ここで銀次逮捕の立役者、本堂平四郎・赤坂署長が登場する。河瀬蘇北「現代之人物観 無遠慮に申上候」(1917年)によれば、岩手県に生まれ、才覚を発揮して巡査から警部まで進み、内務省警保局の推薦で一躍赤坂署長に転じた。