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 こうした経歴から、森長英三郎「史談裁判第3集」(1972年)は「岩手県から上京してきたばかりであって、東京におけるスリと警察の関係を知らない」とするが、「明治犯罪史正談」の記載の方が事実に近そうだ。

「(同郷の)原敬(のち首相)の子分。小野派一刀流の達人。岩手県西磐井郡出身の硬骨漢であった。かねて東京の警察官とスリとの間に積年の悪弊のわだかまりがあるのを知り、早く取り除かなければ警察全体の威信に関わると機会を待っていたところであったから、たとえ警視庁に出血があろうとも、この際スリの大検挙をしようと決意した」

刑事たちが銀次の家に踏み込む!

 金時計をすられた柏田盛文については五代夏夫「薩摩問わず語り 上」(1986)が詳しい。それによれば、鹿児島県・川内(現薩摩川内市)に生まれ、明治維新後、自由民権運動を叫び、国会開設や憲法制定を求めて建白書を出すなど活躍。衆院議員から知事などを歴任する一方、西園寺公望、中江兆民らとともに「東洋自由新聞」を創刊。言論人、文筆家としても知られた。

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銀次逮捕のきっかけをつくった柏田盛文(NHK「歴史への招待」より)

 警視総監は歴代鹿児島県出身者が多く、柏田もそのほとんどと親交があった。すり取られた金時計は「為記念公爵伊藤博文九月二十日柏田盛文殿」と伊藤直筆の文字が彫られており、時価300円(現在の約107万円)。柏田は家宝としていたという。

問題の金時計(NHK「歴史への招待」より)

 柏田は本堂署長に「スリの親分に頼めば返してくれるそうだから」と100円(同約36万円)を差し出した。「一応これを承諾した本堂は、これこそ天与のスリ検挙の好機到来とばかり、内心小躍りせんばかりに喜んだ」(同書)。本堂署長としては、警察権力を握る薩摩閥に一泡吹かせられる絶好のチャンスでもあったのだろう。東日の記事に戻る。

 銀次の本宅は本郷区(現文京区)駒込動坂町にあり、門構え、黒板塀の宏壮なもので、本妻その他の家族がいる。北豊島郡日暮里村(現荒川区)元金杉136番地にも大邸宅を構え、ここに「妾」廣瀬おくにを囲い置き、銀次は同家に寝泊りして本営と定め、日夜男女の子分50余人が出入りして悪事を計画、報告した。おくにもまた豪胆なことは、さすがに銀次の「愛妾」だけあり、大姉御の器量を備えているという。犯人はてっきり同家にひそんでいると23日午前10時、木内、横倉の両刑事は岡部以下手利きの常務巡査6名を従え、突然裏表から同家に踏み込んだ。

 

 さすがに銀次とおくにも、慌てて居合わせた子分らを戸棚、床下などに隠し、「老僕」、「下女」を出して応対させたが、刑事らはなお踏み込んで銀次を捕えようとした。銀次はついに覚悟を決めたのだろう、尋常に縛に就き、隠していた子分8名を呼び出して、悪びれもせず赤坂署に引き立てられた。その折の服装は丸顔の五分刈りに鼻下に八の字ひげをたくわえ、本フラン(ネル=毛織物)の単衣(裏地のつかない着物)にセル(サージ=毛織物)の単衣羽織、ねずみちりめんの兵児帯に紺足袋を履いていた。黒の山高帽をいただき、左の薬指にプラチナの指輪、甲斐絹(山梨県特産の高級絹織物)の細巻き洋傘を持ち、一見立派な紳士だった。

 

 赤坂署では署長自身が銀次以下を取り調べる一方、巡査を各方面に派遣して関係者やその他の親分を検挙しつつある。銀次は署長の取り調べに対し、涙ながらに「なにとぞ今回だけは許してほしい。従来でも各警察署の方々には懇願したことがあったが、今後はどんな御用でも命令を奉じるようにする。その証拠として指を切って誓う」と哀訴、嘆願した。署長は「おまえの指をもらっても何の役にも立たない」と断固としてはねつけ、一層厳重に取り調べ中だとは、警察界の大痛快事だといえる。