現代でもゲームのキャラクター「スリの銀次」などでしばしば耳にする「銀次」という名前。それは通称「仕立屋銀次」で、全国に1000人もの子分を抱え、現在の価値で20億円以上の預金をつくり、スリ(掏摸)を企業化したともいわれる明治時代の伝説的な親分格のことだった。

「華族並みの生活」とも評された男の家にも、いよいよ捜査の手が伸びた1909年。刑事たちが彼の家に踏み込んだ――。

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家賃収入だけでも毎月多額の収入が…「華族以上の生活を営んでいるとは、あきれ果ててものが言えない」

 1909(明治42年)6月26日付の報知は「逮捕せられたる親分銀次 日本一の掏摸の親分 荷馬車二臺(台)の賍品」の見出しで銀次の実像を伝えた。

 逮捕された日暮里の親分、仕立屋銀次こと富田銀蔵(44)は東京第一の親分どころではなく、日本すり界の王とも称すべき有力者。大阪、京都や仙台など、各所に子分を派遣し、至る所、自分の配下でない所はなく、常に不正刑事と結託して巧みにその足跡をくらまし、かつてその筋の手に逮捕されたことはなかった。

 

 各所に屋敷、貸家を建て、1カ月家賃だけでも実に130~140円(約46万~50万円)以上の収入があって華族以上の生活を営んでいるとは、あきれ果ててものが言えない。

 

 二百余名の子分を諸所に派遣して、旧日本鉄道(現JR)は全く銀次の縄張りで、そのまま東京市中至る所で犯罪を犯し、今度の逮捕後、赤坂署に引き揚げた贓品は2000点。荷馬車2台にあふれ、目下被害者に照会中だが、中には20匁(75グラム)以上の純金の指輪があった。これは金時計、指輪などを、その筋の目をくらますためつぶして金塊にしたものだろう。

 同日付國民新聞は、銀次が弁護士3人を抱えていて「子分らに事ある時は、彼らが出て諸般の手続きをしていた」と記述した。

 この日、東日と報知は銀次の顔写真を、國民は銀次とお國の顔写真を掲載。押収された贓品について、國民は1500点余りとしたのに対し、時事新報は「約1万点にも達すべく」とした。

東京日日の報道は続き、初めて銀次の顔写真を載せた

「よくもこう他人の物を盗めたものだ」

 キャンペーン報道を続ける東日は6月28日付で「贓品陳列塲(場)」の見出しで、「贓品は昨年1月以来、3カ所の質店在庫の物二千五百余点」とし、質店の「手代」らがより分けて赤坂署の道場に陳列された模様を次のように伝えた。

被害品探しに赤坂署前に集まった人たち(NHK「歴史への招待」より)

 27日朝以来、同署に贓品の一覧を希望する者が引きも切らず、整理中ながらも同署は道場入り口に「品物見分け所は此處(ここ)です」と仮名で大書し、(訪れた人に)一々姓名を聞いたうえ、親切に巡覧させている。27日午後5時までに既に来観者は七十余名の多さで、道場に入ってうずたかい品物を見ては「マア憎らしい」と嘆声を漏らさない者はなかった。「よくもこう他人の物を盗めたものだ」と口々にスリの行為を憎み「質屋も損だろうが、いい気持ちだ」と言う者もあった。

 

 品物は上等な男女の衣類、洋服、外套、肩掛け、金銀時計などだが、中には(川端)玉章筆の「梅花書屋圖(図)」の幅(掛け軸)、桐箱入り・畫(画)雲楼岸良筆の桜の幅などもあり、価格は一幅少なくとも3円(現在の約1万1000円)ぐらいから高くは100円(同約35万6000円)というものもある。被害者で見に来る人は婦人が多く、日暮里、谷中方面の者は、巣窟に近いだけに「もしや」と早速駆け付け、神田区(現千代田区)鎌倉河岸の男性の妻は、大森鈴ヶ森の砂風呂で窃盗に遭ったと言って来て、千駄ヶ谷町(現渋谷区)原宿の少佐夫人なども「金時計はいかに」と訪ねて来たが、いずれもあれかこれかと目を皿にして見分け回り、果ては一カ所に集まって被害当時の愚痴を語り合っていた。