同日付報知朝刊には「銀次の手より押収したる贓品」の写真が載った。「賍品陳列塲の賑ひ(い) 呉服店のような赤坂署」(6月29日付萬朝報見出し)が続く中、柏田前知事の金時計も発見されて本人に返却されたが、すったのは銀次の子分ではなかった。
「いかにスリが警察の中に溶け込んでいたかを示すものでもある」
地方から訪れるスリ被害者も続出。視察した赤坂区議会議員30人の発案で7月2日、区議会で本堂・赤坂署長に感謝状を送ることを決議したほか、スリ被害者や東京市内の各区から署長への感謝状贈呈が相次いだ。そんな中、東日は6月30日付で、本堂署長に銀次の子分から罫紙1枚の嘆願書が届いたと報道。翌7月1日付でその全文を掲載した(記事原文のまま)。
嘆願書
奉申上(申し上げ奉り)候。小生幽(かすか)に承知候處(ところ)、掏摸の親分と稱(称)するは仕立屋銀次許(ばか)りにも無之(これなく)、大阪などには幾らもあり、また大賊、人殺しもあるに拘(かかわ)らず、我等親分許り左様にいぢめられては誠に以つ(っ)て我等社会はたまり不申(申さず)候。今日天下の法網を見逃し呉れとは不申候得共(えども)、今度許り是非御許し被下度(くだされたく)、何卒何卒今度丈の處、非常御寛大の御取扱ひ(い)、乾分(子分)一同より奉嘆願候。何卒何卒国家のため忠義申上候間、親分の罪を軽く相成るや(よ)う奉願上候。
四十二年六月二十六日 銀次乾分一同
赤坂警察署 御中
「史談裁判第3集」はこの嘆願書を「ふるっている」とし、「スリが、これではスリ社会がたまらないからご寛大に、と言っているのである。いかにスリが警察の中に溶け込んでいたかを示すものでもある」と述べている。
これに対し、本堂署長は7月9日付読売の談話で「銀次のごときも15年ぐらいの懲役に処してやりたい。獄を出る時にはもう60だから、悪事をはたらくことはできまい」「とにかく市内にはすりの被害はなくなりましたが。何か非難の声があります?」と胸を張った。
7月11日には直接銀次を取り調べ、涙ながらに拝む銀次の姿を見て「盗人の小唄きゝ(き)けり五月晴れ」の狂句を詠んだ(7月13日付東日)。銀次は7月13日、東京地方裁判所検事局に送られ、年が明けた1910(明治43)年3月24日、他のスリ親分ら10人とともに予審で有罪となり公判に付された。
父親は“刑事”、13歳から仕立屋の修業を重ね…
それまでに各紙には銀次の経歴が大小さまざまに報じられた。のち、東日の記者だった北條清一が銀次から聞き書きした文章が半世紀ほどたった戦後の1955年、雑誌「オール讀物」に掲載された。「仕立屋銀次 警視廰(庁)を向うに廻(回)し五百の子分を躍らせた巾着切親分の懺悔(ざんげ)ばなし」。内容を要約してみる。