明治末年、日本では大量殺人が多かった。例えば、1906(明治39)年7月のある日の新聞紙面には「宮崎縣(県)八人斬」「紀州の五人殺し」という見出しが並んでいる。山崎哲「〈物語〉日本近代殺人史」(2000年)は「当時の人々が個人としてではなく、家族として生きていたからである」と書くが、それだけではないだろう。社会自体に激情的、刹那的な色彩が濃かったといえるのではないか。

 今回取り上げるのは明治38年、いまから120年近く前に大阪・堀江の遊廓で起きた惨事だ。

 犯人は52歳の貸座敷(遊女屋の公称)の店主・中川萬次郎。日本刀を振るって内縁の妻の母ら6人に切りつけ、そのうち5人を殺害。男の動機は、元芸妓の若い妻の浮気だった。自分が養子にした男と駆け落ちしたうえ、妻の親族に訴えても相手にされないなど、“なめられている”と思い込んだゆえの凶行だった。

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中川萬次郎(大阪時事)

 事件はどのようにして発生し、当時の人々にどう受け止められたのか。当時の新聞記事は、見出しはそのまま、本文は現代文に書き換え、適宜要約する。文中いまは使われない差別語、不快用語が登場するほか、敬称は省略する。

「犯人」は日本刀を振り回して惨殺し、謡曲をうたった

 当時の大阪では大阪朝日(大朝)と大阪毎日(大毎)が部数を競い、福澤諭吉が創刊した東京の時事新報が進出。大阪時事新報(大阪時事)を発刊していた。この事件は3紙とも大きく扱っているが、発生を報じた1905(明治38)年6月22日付は最もシンプルな大阪時事を見よう。

 遊廓の六人斬(堀江)山梅楼の大惨事、芸妓外(ほか)五名を殺し一名を傷(つ)けて自首す

 

 昨21日午前4時半から5時までの間に、(大阪市)西区北堀江上通3ノ177、貸座敷業「山梅楼」こと中川萬次郎(52)方で、男女5人を斬殺。1人に重傷を負わせてその筋へ自首した椿事があった。凶行者は楼主萬次郎で、被害者は内縁の妻・座古谷あい(27)の母こま(65)と、こまの次男安次郎(20)、次女すみ(14)、「子守り女」中尾きぬ(16)、「山梅楼」抱え芸妓梅吉こと杉本よね(20)、そして同じく抱え芸妓妻吉こと河内よね(18)の6人。妻吉のよねを除いた5人はいずれも現場で即死し、妻吉は気息えんえんとして死に瀕していたのを医師の介抱でやっと蘇生させ、西署が臨検後、土佐堀5丁目、高安病院に入院させた。

事件第一報は大阪朝日だった。加害者として、萬次郎の似顔絵が載っている

 固有名詞の表記は新聞によってバラバラ。判決文の中でさえ、1人の人物に異なる表記が登場し、登場人物の関係も入り組んでいるが、この記事中の表記で統一する。

 大阪時事はほぼ社会面全面、大朝と大毎はいずれも社会面全面に加えて他の面も使って、加害者と被害者の経歴、犯行に至る経過などを大々的に報道した。