1ページ目から読む
3/5ページ目

一同が寝静まるのを待った男は、頭めがけて一刀を……

 当時はまだ梅雨のさなかで長雨が10日余りも降り続いていた。ここからは現代文にした大阪時事の記事をそのまま載せる。

 6月20日午後11時、萬次郎は「今夜は大いにごちそうしよう」と、茶の間に西洋料理など、さまざまな酒、さかなを取り寄せ、こま親子と、日頃から彼女らに味方している梅吉、妻吉を一堂に集め、酒を勧めて飲ませた。一同が就寝したのは翌21日午前3時ごろという。その時まで萬次郎は居間におり、一同が寝静まるのを待っていた。

 用意していた黒さや、つば付きの1尺8寸(約54センチ)ばかりの脇差しを取り出し、まず奥の間で、すみを抱いて寝ているこまの頭を目がけて一刀を浴びせた。起き上がって逃げようとするところを後ろから後頭部に切り込み、倒れると同時に、悲鳴を上げて逃げようとするすみの頭部にただ一打ちに切りつけた。血刀を提げたまま2階10畳間に駆け上がり、東側にあおむけになって寝ていた安次郎を前頭部から拝み打ちに切って、首が落ちるほどにした。返す刀で、胸に両手を組み合わせて寝ていた妻吉の左腕を切り落とし、右腕は皮を残すだけの重傷を負わせた。さらに3畳間に寝ていた梅吉の頭部を切って即死させた。その後、階下に降りてきて店の4畳半に寝ていたきぬを呼び起こし、寝ぼけた風体で何事とも知らずに進んできたのを一刀で切って奥の間に打ち倒した。再び2階に上がると、妻吉が苦しんでいる様子だったので、刀を口に当てて左右とも1寸(約3センチ)ずつ切り裂いた。

 両腕を切り落とされ、口が切り裂かれてもなお生き延びたのは、抱え芸妓の妻吉。彼女はまだ17歳の少女だった。記事は、萬次郎が、妻吉が絶命したように見えたのでそのまま階下に下った、としているが、森長英三郎「史談裁判第3集」(1972年)は、その際、「得意の謡曲『船弁慶』を渋い声でうたいながら階段を下りていった」と記す。6月23日付大朝は「右の手に血刀を提げ、ぶらぶらと段はしごのところまで行って『血刀ひっさげ箱ばしご』と、小声で初右衛門五人斬りの浄瑠璃をかたった」という妻吉の証言を載せている。

大阪毎日に載った被害者・梅吉(左)と妻吉(右)の写真

ADVERTISEMENT

「船弁慶」は「平家物語」などに題材を取り、源義経や武蔵坊弁慶が登場する能楽の謡曲。「初右衛門五人斬り」は「八右衛門」の誤りで、歌舞伎「盟三五大切」のモデルとなった「曽根崎五人斬り」の薩摩藩士・早田八右衛門を指す。このあたりにも萬次郎という人物の心象風景、ひいては事件の一種異様な雰囲気が見てとれる。