東京の旧湯島聖堂周辺の川辺で全裸女性遺体が発見された1897年の「お茶の水全裸女性殺害事件」。鼻が僅かに薄皮でぶら下がっているだけという、激しく損傷した遺体状態であったこともあり、捜査は難航。このまま迷宮入りかとも思われた最中、捜査線上に被害者の「夫」、松平紀義が浮上した――。

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 捜査線上に紀義が浮かんだのは、警察の現場周辺地域の戸口調査だったと各紙書いている。そこから、夫婦げんかの後、消息不明になっている女性がいることが判明した。

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 5月14日付時事新報に載った「慘殺事件の主任探偵(捜査主任)角村巳之吉氏の實(実)話」には、「松平が裏庭の垣根の所で衣類を洗っていたのが、今度発覚の端緒を開いたのです」とある。衣類とは血の付いたこのの着物や下着だったとみられる。それを隣家の家人らが目撃したという話を探偵(刑事)が聞き込んだ。

 犯行の中で最も疑問だったのは遺体の運搬。若宮町の長屋からお茶の水までどのようにして運んだのか。5月12日付で東朝は、紀義が共犯者とともに人力車で運搬したとして具体的なルートも指摘。共犯として拘引された人力車業の男を実名で伝えた。

 しかし、同じ日付の時事新報は、「馬に非ず(人力)車に非ず、また人手にも非ずして、全くは彼凶漢一個の胆力なり」(原文のまま)と断定した。「一点の血痕も漏れ出さないようにきれいに荷造りをし、(遺体を)布団3~4枚の大きさに丸めて車夫が(客の)膝掛けに使う毛布に包み、自分の背に負うて、提灯を提げて(4月)26日の真夜中ごろ、若宮町の細道を通って行くのを確かに見たという目撃証言があった」と書いている。結果的に公判ではほぼその通り認定された。

予審で明らかになったことは…

 紀義の調べは予審判事によって進められたが、このころ各紙は、容疑者と被害者の過去から親族関係、関係者の証言、刑事の「手柄話」などを大々的に報道。特に目立ったのは福澤諭吉が創刊した時事新報だった。

時事新報は毎回の裁判を複数ページで詳しく報じた

 過熱する中で誤報、虚報も続出。5月22日ごろには、東朝など数紙が「紀義が犯行を自供」と報じたが、誤報で各紙は後日訂正した。6月30日、予審が終結。事件は公判に付された。予審決定書で認定されたのは次のような点だった。

(1)紀義は1895年2月ごろ、のぶと榮長を連れてこのの家に移り、内実夫婦として生計を営んでいた

 

(2)しかし、紀義の性質は貪黠(たんかつ=悪賢く欲が深い)嫉妬で、このの貯金を自分の名義で人に貸し付け、自分の所有のようにしてこのに任せなかった

 

(3)このもまた性質が剛腹(太っ腹)で紀義に従わないばかりか、彼の擅横(せんおう=わがまま勝手)に怒って紀義を夫と見ず、罵詈(ばり=面と向かって悪口を言う)紛争を日々繰り返し、ついに別れるべきと決意した。これに対し、紀義に別れる意思はなく、このの着物を知人に預けて家を出る道をふさいだ

 

(4)このは紀義を嫌うようになったが、金を取り戻さなければ別れることはできないと思い、自暴自棄になって大酒を飲んでは怒り、悪口を言って紀義に抵抗した

 

(5)紀義は、このを服従させようとしたが意思が固く言うことを聞かないため、今年3月になって殺害を決意。3月12日ごろ、酒を勧めて寝かせたが、紀義が平常の態度と違うことを怪しんだこのは熟睡したふりをして様子をうかがった。紀義がひもで絞殺しようとしたところ、来客があったため、この日は断念した

 

(6)以後も機会を狙っていたところ、4月26日、このがのぶと榮長を叱り、紀義にそのことを言って騒いだため、午後2時ごろから平常より多く酒を飲ませた。午後4時ごろ、このが酔って三畳間で眠ったので、子ども2人を神楽坂・毘沙門天の祭り見物に行かせた。2人は午後7時ごろ帰ってきたので、「おみくじを買ってこい」と言って再び送り出した

 

(7)寝ているこのの首を両手で絞めて殺害。午後9時ごろ、帰ってきた2人をまた遊びに出した間に鋭利な刃物で顔を10カ所切り、髪の毛を切って顔が識別できないようにした

 

(8)27日午前0時前、子ども2人を再度表に出して、遺体を背負ってお茶の水の土手まで行き、縄を解いて遺体を水面に向かって投棄。午前1時ごろ帰宅した