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法廷で初めて犯行を自供

 司法界に一石を投じた控訴審判決だったが、同年12月5日の大審院判決はあっさり破棄。審理を宮城控訴院に移送した。事件発覚直後に予審判事が現場で検証をしているから現行犯だという理屈だった。「続史談裁判」によれば、審理の移送は大正年間まではたびたび行われた。「白紙の立場で裁判をさせようとする意図は分からないでもない」が「被告人の防御権からいえば、迷惑な限りだろう」と同書は言う。

 ただ、この事件を見る限り、事件と縁もゆかりもない宮城控訴院での裁判は明らかにある変化をもたらした。取材網の関係もあって新聞報道は驚くほど沈静化。紀義の心境にも影響を及ぼしたようだ。一審判決から控訴審開廷までの間には、関東一円でその名をとどろかせた「稲妻強盗」の暗躍が始まっていた。関心は「お茶の水」から徐々に離れつつあった。

 身柄を移送されて宮城控訴院で審理が始まったのは1899(明治32)年3月28日。その法廷で紀義は初めて犯行を自供した。各紙は現地電で短く速報したが、一拍置いて詳報を載せた社はわずか。

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 その中で徳富蘇峰が創刊した國民新聞は3月30日付と31日付に詳報を掲載。「被告松平紀義はおもむろに口を開いて、『従来被告の申し立ては全く虚構だった。今日は事実の真相を吐露しよう』(と陳述した)」と要旨、次のように書いた。

紀義の自供内容を報じた國民新聞

「もう起きてもいいだろう」と言いながらよく見ると、顔色が…

(1)事件当日の4月26日は旧暦3月15日。私は両親と早く別れてろくに学問もしなかったのが残念で、子どもにだけは学問をさせてやりたいと考え、早朝から湯島、亀戸など3カ所の天神にお参りした。
 その後、一杯飲んで貸金返済の催促をして家に帰ったのは午後1時ごろ。このは火鉢のそばで面白くない顔をして座っていた。「どうしたのだ」と聞くと、「子どもがけんかをして、いくら𠮟っても言うことを聞かない。あんたが外で酒を飲み歩いて教育をしないからだ」などと言った

 

(2)「まあ、きょうのところは勘弁してくれ」となだめて、娘に酒を買いに行かせ、仲直りに飲んでいるうちにまたけんかになった。このは大変怒って「私も芸者と酒でも飲んでこよう」と言いながら、羽織を引っかけて出て行こうとした。
 私が羽織を引いて止めると、例のかんしゃくを起こしてしまい、近くにあった小刀で私の足を刺したうえ、悔し紛れに両手で私の睾丸をつかんで離さなくなった。このがよくやる手だが、痛いの痛くないのって……。
 気が遠くなって苦しいので、右手を伸ばしてこのの襟先を取った。考えてみると、そこがノド先でもあったろうか。しばらくはもうろうとしていたが、気がついてみると、このがそばに打ち伏していた

 

(3)(睾丸が)あまりに痛むので塩でもんでおき、裏の八幡さまで1時間ばかり休んでから家に入ると、このはまだそこにいる。
「もう起きてもいいだろう」と言いながらよく見ると、顔色が変わっていて脈も極めてかすかなような、温かみは少しあるように思ったが、自分も焦っていて、はっきりしたことは分からない。近所の医者は出かけていたので、上手だという医者を呼びに行こうと辻車(外にいる人力車)にこのを乗せて出かけた

 

(4)その途中、大便がしたくなって、(お茶の水の)土手の中ほどまで下りて済ませているうち、車夫はこのをそこへ捨て置いて逃げてしまった。見ると、(このは)もうこの世の人ではなくなっていた。
 このまま自首しようと思ったが、子どもの将来が覚束ない。思いを巡らして涙に溺れ、弱気になった。いったん家に帰って榮長を起こし、この世の別れのつもりで父の教えた道を守らねばと説教をするうち、決心が鈍った

 

(5)しかし、そのまま捨てておくわけにもいかず、(現場に戻って)このの顔はこの辺の巡査がよく知っているので、どうしても隠さなければと、着物をはぎ取ったうえ、顔に傷をつけた。
 お茶の水へ投げ入れる時にも、泣く泣く「前世のいかなる因縁でこんなことになったのか」と死骸に申し向けて水葬にした(記事は「声を曇らせ、涙をのむ風情を見せた」としている)

 

(6)証人たちの言うことは全てうそ。金貸しをしていたので、多くの人に恨まれたとみえ、こぞって悪漢無頼のように言う。(自首する)決心が緩んだのは一生の不覚。このを殺害したのは事実だが、金欲しさにしたことではなく、決して世人の言うような大悪人でないことだけは分かってほしい