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なぜこの段階で罪を認めたのか?

 紀義の供述には不自然、不可解なところがあり、とてもそのまま受け取るわけにはいかない。と言って、全て偽りとも言い切れないところがある。1つだけ言えるのは、この段階で罪を認めたのは、一審判決から量刑をおおよそ推測して、死刑回避を確実にしようという意図からだろう。

 案の定、同年4月4日の判決は、第二審で認定された謀殺での無期を破棄。犯意の薄い故殺での無期となった。そして5月19日の再度の大審院は紀義の上告を棄却。無期が確定した。20日付報知は「これにて変幻極まりないお茶の水事件も全く落着するに至った」と書いた。

上告棄却で無期が確定した(時事新報)

これで事件は終わらず…

 この事件はこれで終わらない。紀義は北海道の集治監(刑務所)で服役。時折消息が伝えられたが、確定判決から18年後の1917(大正6)年12月16日付都新聞に突如登場する。

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紀義が寄席に現れた!(都新聞)

 寄席に現れた松平紀義 昨夜から柳水亭へ 感慨無量の告白

 

 お茶の水の女房殺しとうたわれた松平紀義(62)は昨年の暮れ、21年間つながれていた北海道の北見集治監から特赦放免となり、いまは横浜市真金町に住み、同市の興行師・田邊の手で浪花節の群れに(身を)投じ、昨夜を初日に神楽坂上の寄席・柳水亭に懺悔談の緒(いとぐち)を切った。高座に現れた紀義は白羽二重に黒い三つ葉葵の紋付き、白のはかま、胸高に締めた丸打ちのひもという服装。頭はツルリとはげ、頬から胸へ白髪のかかったひげが長い。これが明治30年4月24日の夜明け(26日深夜の誤り)に、惨殺した女房お此を丸裸にしてお茶の水の崖下へ捨てた犯人かと凄惨な気に打たれて、いっぱいに詰めた客もひっそりとした。

「21年」は事件から起算した数字。寄席という場所にはふさわしくない、異様な雰囲気が伝わってくる。記事は続く。

「私はこの区の若宮町21番地で高利貸しをしておりました。犯罪の夜は毘沙門の縁日でござりましたが」と、東北弁で途切れがちに話していく。うまくはないが「30代の時、監獄に引かれ、特赦放免の時はこの高齢で」と実感の強い言葉がぞっとさせた。「私は井上圓了さんの霊魂不滅論を信じます。私は現に、殺した最愛の女房の幽霊に13度会いました」と感興を高ぶらせることも言ったが、具体的な話までいかないうちに息を切らして引き下がった。手首に水晶の数珠を掛け「信仰生活に入った」と言ってはいたが、しょせんは刑余の老人1人が食うべき糧のために働くのであった。来春は旅の新派に加わって地方へ行こうかと、気ぜわしい年の暮れを控えて紀義は考えている。