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 井上圓了は「妖怪学」でも知られた仏教哲学者で哲学館(現東洋大)の創設者。さすがに“軟派”の都新聞だけあって、クールかつ趣のある記事になっている。「浪花節の群れに投じた」とあるが、実際には浪花節は演じなかったのか。結局、昭和の「阿部定」同様、怖いもの見たさの客を呼ぶ“目玉商品”だったのだろう。興行主もしたたかなら、それに乗って「殺人犯の懺悔話」を寄席で語る紀義もしたたかと言うべきか。

寄席進出に業界の裏方からも反発が。ところがその約2ヵ月後…

 5日後の12月31日付東朝コラム「演藝風流録」に「出方からヤリ」の見出しでこんな短信が。「浪花節へ出た松平紀義も最初は睦会にハネられて寄席会社側へ持ち込み、肝入りから手金50円渡した。後で出方に話すと大反対で、とうとう手金流れになったは、この暮れにとんだ手焼き」。50円は現在の約13万5000円。紀義の寄席進出に業界の裏方から反発があったことが分かる。

 翌1918年11月17日付読売コラム「演藝あさぎ幕」にも「お此殺しの松平紀義が金澤へ200円で買われたので、電車賃にも足りないお給金を頂戴してる前座連、うらやましがって『巣鴨へでも修行に行ってこようか』などとうわさしている。会社側の某真打ちは苦々しがって『席亭なんて者は、金にさえなれば何でもするんですが、平気で前科者と同席する芸人の気が知れません』」とある。「巣鴨」は巣鴨監獄(のち巣鴨刑務所)のこと。このころの200円は現在の約40万6000円だから、前座連がうらやましがるのは当然か。

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 ところがそれからひと月もたたない1919年1月29日付読売は「松平紀義 又入獄 食ふ(う)に困り竊(窃)盗を働く」という記事をベタ(1段見出し)で掲載した。主要部分はこんな感じだ。

また入獄した紀義(東京朝日)

「(紀義は出獄後)牛込区南榎町に一戸を持ち、市内場末の寄席に出演して犯罪当時の顛末を演じていたが、元より世間の同情もなく、寄席稼ぎもできず、ついに浮浪人同様の身となっていた。さる24日夜半、小石川区水道町3番地地先で木炭を盗み去ろうとしたところを大塚署員に捕らわれ、他の脅迫罪も露見して昨日、検事局に送られた」

 あまりに早い転落というべきか。何かに浪費していたのか。どう処分されたかは不明。

紀義の最後の消息は…

 そして、松平紀義の最後の消息と思われるのは文藝春秋の雑誌「話」1935年8月号所収の黒木勇次郎「『お茶の水事件』の主人公は生きて居る」。事件から40年近くがたち、紀義も80歳近くになっていた。

「話」の記事に添えられた80歳近くの松平紀義

「早稲田の寓居」を訪ねた筆者は「80になんなんとする老翁のあまりに若々しいのに一驚を喫した」と書く。写真も添えられているが、確かに頭ははげ、長いひげは真っ白になっているが、眼光は鋭く、かくしゃくとしている。紀義はこのとのいきさつを語るが、びっくりするのは、それまで言われていたことと全く違うストーリーであること。