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 同年7月24日付東朝「第二回」(実質的な夕刊)の社会面の舞台上演予定記事には、横浜の羽衣座の演目についてこう記されている。

「同座は特に壮士俳優・山口一座で開場すべきはずのところ、市村座における同一座の興行が日延べとなったため開場に至らなかった。日がたったが、いよいよ明25日から開場と決定。狂言は『大評判』のお茶の水女殺しを仕組んで市村座で演じたもののうち4幕目を抜き、名古屋大須観音の場と病院内解剖室の場まで5幕」

 山口一座とは、歌舞伎の女形出身の俳優・山口定雄が率いる新演劇の劇団のこと。「明治事件史」の「稲妻強盗」でも触れたが、明治30年前後の新演劇は競って、事件記事を題材に自由に脚色した「探偵実話」を上演して人気を集めた。事件から3カ月足らず、お茶の水の事件も劇化されて話題になっていたことが分かる。

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「事件には全く覚えがない」と起訴事実を否認。判決は…

 初公判は同年10月6日に開かれ、紀義は当時の刑法の謀殺罪と死体毀棄罪に問われた。7日付報知を見る。

 東京地方裁判所では大評判の殺人事件なのでさだめし多数の傍聴人があるだろうと、大審院(現在の最高裁判所)第1号の法廷を借りて公判廷に充て、500人を入れるはずだった。はたして都下の男女はきょうの公判を見ようとわれ先に裁判所に駆け付け、午前8時ごろには予定の傍聴券を出し尽くし、遅れて来た者は公判廷に入れなかったが、せめて外部の模様を見て帰ろうと、いずれも構内に入って石造りの廊下をうろうろ歩き回る。その人数ほぼ400~500人を超えるほど。

 

 傍聴人は千差万別で、僧侶あり書生あり商人あり職人あり。婦人は芸妓らしい1人、田舎の「酌婦」らしい1人、丸まげの者2人を見た。傍聴人には縞の羽織、前垂れ懸けの者が多く、紋付・羽織は3割ぐらい。洋服先生はわずか12~13人だった。

 この日は検事が論告を始めようとすると、紀義が立ち上がって「風邪で熱が激しく、1週間も食事をしていない」と公判の延期を訴えた。裁判長に呼ばれた看守は「それほどひどくない」と答えたが、紀義は「耐えられない」と主張。結局、裁判長も認めて閉廷した。

 10月21日の第2回公判では、「事件には全く覚えがない」と起訴事実を否認。このについて「4月25日朝、麹町の元夫の家から麻布の知人の家に行くと言って家を出たきり帰らなかった」と述べた。以後、娘ののぶや紀義の知人に対する尋問が行われ、第3回の論告で検察側は死刑を求刑。各紙の中でも時事新報は毎回複数ページを使って詳細に内容を伝えた。そして同年12月1日の判決は――。

一審判決を伝える時事新報

 松平紀義の處(処)刑(首を繼(継)がれて無期徒刑)

 

 検察官は死刑を求刑し、弁護士は無罪を主張したお茶の水謀殺事件の被告人・松平紀義に対する裁判は昨日言い渡された。紀義自身すら心の裏では死刑を覚悟しているらしく思われたが、幸いにも罪一等を減じられて無期徒刑(現在の無期懲役)に処せられた。