「このは薩摩藩の家老の子孫で13歳で伯爵家の小間使いに。自分は幼名は茂千代といい、父母を失った後、同じ伯爵家の食客となった。同じ家で暮らすうち、このから迫られて関係を結んだ。自分は伯爵家を出て会津に行き、このと別れたが、その後、2人の間の子どもも生まれた。それから別々の人生を歩んだが、十数年して再会。一緒に暮らすようになった」
筆者は当時の世間の風評をぶつけるが、紀義は巧妙にすり抜け、“美化”された物語を語り続ける。殺害の犯行自体は公判時の自供とほぼ同じだが、そこに至る経緯でも2人は美しく描かれる。
「美しすぎるラブストーリー」
このの遺体を担いで運んだことを「19貫(約71キロ)もあるのであるから、その重さといったらなかった」と述懐。「顔面の創傷は、投げ込む前に1尺2寸(約36センチ)ほどの牛肉包丁でつけたものであった」と述べたのはリアリティーがあったが、筆者は「もちろん、記憶の違いその他、都合上の作為による誤謬(誤り)もないとは言い難いであろう」と書いているものの、それ以上に、自分も周囲もきれいに作り上げた「美しすぎるラブストーリー」で、高齢者の妄想に近い気がする。
唯一最大の欠点は、殺人、死体遺棄、さらに現在なら死体損壊という、おぞましい犯罪とイメージがどうしても結び付かないことだろう。その後、紀義がどうなったか。知ることができる資料は見当たらない。
本人の回顧談はさておき、判決で認定された事実を見ていくと、被害者と「犯人」のいずれも「日の当たる道を正々堂々と歩いてきた」人間ではなく、「人から後ろ指をさされる」ような人物。それが「主役」の事件がなぜこれほどまで騒がれたのか。
時代は日清戦争と日露戦争の「戦間期」。バンカラで勇ましい風潮が世を覆っていた。「稲妻強盗」もそれに乗った「男らしさ」が時代に合っていた。しかし、その裏で人々はどこか陰々滅々とした物語を欲していたのではないだろうか。男らしくも美しくもなく、「くだらなく下品な」男女の物語を。人々が「どうしようもない、バカなやつらだ」と笑い、軽蔑し、ストレスを発散できるようなスキャンダルを。猟奇的であればさらにいい。
この事件は、そうした庶民の意地悪な好奇心を満たすのにピッタリだったのではないか。新聞もそれに気づいて報道を過熱させた。そう考えると、最近も似たようなことがあるような気がしてくる。
【参考文献】
▽五味碧水「お茶の水物語」 吉井書店 1985年
▽「警視庁史第1(明治編)」 1959年
▽「朝日新聞社史明治編」 1995年
▽森長英三郎「続史談裁判」 日本評論社 1969年