明治38年、大阪・堀江の遊郭。貸座敷(遊女屋の公称)の店主・中川萬次郎が、内縁の妻・あいの親族ら6人を日本刀で切りつけ、5人が死亡した大量殺人事件が起こった。男の動機は、元芸妓の若い妻が、自分が養子にした男と駆け落ちしたうえ、妻の親族に訴えても相手にされないなど、“なめられている”と思い込んでいたことだった。
萬次郎の判決はいかに。“殺せなかった妻”・あいはどこへ消えたのか? そして、両腕を切り落とされながらも生き延びた少女・妻吉は――。
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妻は殺人犯の夫を…「うちの人ほどむごたらしい人はおまへん」
大朝は既に初報の6月22日付で、家出したあいから萬次郎に「私は死ぬとも再びあなた方へはかえりませぬ。私との縁はこれまでと諦めてくだされ」という手紙が届いたと報じていた。
6月23日付でも「小萬の行方 今に知れず」の小見出しで報道。それによれば、西署が姉の夫らに行き先を聞いたが「全く知らない」ということだった。ただ、なぜ萬次郎を嫌ったかについて、あいは芸妓時代の同輩にこう語っていたという。
「うちの人ほど恐ろしい、怖い、むごたらしい人はおまへん。私、いまから思い出してもゾッとしますワ。台湾へ連れて行かれた後、私が中国人と密通したと証拠もないことを言い張って、庭の松の木へ赤裸にして縛り付け、刀を抜き放って背やおしりを峰打ちでピシピシと殴りつけ、果ては刀を頬に差し付けて『コリャ、言わねば一突きだぞ』と芝居でも見たことのないほど、むごたらしう打たはりました。私はてっきり台湾の土になるものと観念して黙っていると、とうとう責めあぐんでやっと縄を解いてくれはりましたが、それから怖うなって、連れ添う気にはどうしてもなれまへん」
「萬次郎がいかに残忍狂暴であるかは、この話でも察せられるだろう」と記事は締めくくっている。6月22日付大朝も、殺されたこまが妻吉の親族に「萬次郎にも困ったものだす。『あいの居所を言え言え』と毎日責められるのには閉口だす。私もどこか田舎へ身を隠さねば萬次郎に責め殺されるやろ」と語っていたと伝えていた。