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 不思議なのは、その数日前の1月29日付読売に小さな記事が載ったこと。

 大阪七人(六人の誤り)斬の時、中川萬次郎に両腕を切られた芸者妻吉とは主従の関係にあって萬次郎に深く恨まれたお愛という女性は、遠からず東京に来て妻吉同様、各所の寄席に出演する由。

「見世物」として共演した女たち

 あの、あいまでが「見世物」として寄席に、と驚くが、実際に共演したようだ。「妻吉自叙伝 堀江物語」の巻末には、「かへりみ草」の題名で、歌人にもなった妻吉(大石米子)の短歌が収められているが、その中に「六人斬の因をなせし女お愛に逢ふ(う)」の題で2首がある。

「色もみせすうき身よそひてかの女寄席の楽屋にひや酒をのむ」

「かの女われをそらめにみやりつつ三十路のかほにけはひするかな」

 運命のいたずらというのか。それぞれの心情はどんなものだったのだろう。

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 萬次郎の遺骨は、愛知県の実兄に引き取られた。東京の寄席に出ていた妻吉は、兄からの電報で知り、2月7日、浅草・蓮光寺で供養の法要を開いた(2月8日付読売)。

 妻吉はその後も高座に出続けるうち、画家と結婚。2児をもうけたが、家事などができないからと望んで離婚。昭和初年、高野山で得度して仏門に入り、法名・大石順教に。このころから身体障害者の教育、社会復帰の活動に乗り出し、施設を建設。1200人以上の身障者を世話した。口で書く書画は、書が日展に入選するほど。

 1968(昭和43)年4月21日、住職を務めていた京都の寺で死去。80歳。22日付読売朝刊の訃報の見出しは「大石順教尼、数奇の一生閉じる」だった。

大石順教尼(妻吉)の訃報。「両手を切り落とされたもののかろうじて生き残った」(読売)

 【参考文献】
 ▽山崎哲「<物語>日本近代殺人史」 春秋社 2000年
 ▽水知悠之介「大阪堀江今昔」 燃焼社 2003年
 ▽「大阪府警察史第1巻」 1970年
 ▽森長英三郎「史談裁判第3集」 日本評論社 1972年
 ▽大石米子「妻吉自叙伝 堀江物語」 駸々堂書店 1930年
 ▽宮城浩蔵「日本刑法講義第二巻第二編」 明治法律学校 1903年
 ▽花井卓蔵述「訟庭論争」 春秋社 1931年