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 控訴審判決を報じた1905年12月15日付大阪時事には、「高座の花 松川妻吉の近状」という記事が見える。一家5人が惨殺されたあの夜、ただ一人生き延びた少女・妻吉の近況を報じたものだ。

ただ一人生き延びた少女は…

 両腕を失い、不自由な生活を両親らと送りながらも、「松川妻吉」を名乗り、月給75円(当時にして約28万円)で高座に出ていると伝えている。

読売が取り上げた「無手芸妓の妻吉」。「両腕を斬落とされしも…」とある

 1906年3月28日付東京朝日(東朝)と29日付読売には、似たような見出しの東京進出の記事が掲載された。「無手芸者松川家妻吉」(東朝)、「無手芸者の妻吉」(読売)。読売の記事は妻吉の現状を詳しくリポートしている。

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 妻吉のお米(ヨネ)は松川屋妻吉と名乗って無手の姿で浪花三友派の寄席に現れ、世人の同情に訴えて歌舞音曲を演じつつある。今回上京のうえ、三遊派に加わり、府下の各寄席に出演することになった。

 踊りが好きで上手なところから芸妓となったが、両腕を切られたことで、いまは長唄、浮世節、都都逸をもっぱらにしている。踊りは足拍子をとって腰と首で調子よく振りを見せる。ただ、出演前後の騒ぎときたら大したもので、そのために両親が付き添ってきている。洗面、歯磨き、支度万端は言うに及ばず、高座に現れてからお湯を飲ませるにも、万事母の手を要し、夏季はノミに食われる折などは誠にかわいそうなもの。一晩に三度も四度も寝巻を取り換えることもあるという。

 妻吉の雇い入れには、東京・牛込の和良店の主人が万事切り盛りし、1カ月の雇い賃550円(現在の約202万円)で引き受けることになったという。

 妻吉は両腕のない自分を同情的な目で見てくる周囲に対し、ハキハキとした口ぶりでこう言ってみせた。

「何も悲しう思いませんわ。人はんがみんなかわいがってくださるほどに。あんたはん方もどうぞかわいがってくだはれ。一生懸命稼ぎますさかい」

 その彼女が死刑執行前の萬次郎と面会したのは「妻吉自叙伝 堀江物語」によれば1906(明治39)年5月20日。「ぜひ会いたい。一目でも会ってわびを言いたい。どうせ自分は近くこの世を去る身なのだから」という手紙が、大阪・堀川監獄の萬次郎から 届いたからだった。