7月16日付大毎には関係者の消息が載っている。
それによると、あいは神経衰弱(疲労、不安などの症状を総称した診断名)として姉の家で療養中。初光は萬次郎の正妻やえに預けられたが、やえに異常な言動が目立つので、山梅楼に引き取られ、萬吉(れい)の手で育てられている。明治郎は大阪に出てきたものの、体調が思わしくなく、再び愛知に帰郷した。そして、妻吉については、香具師仲間でひともうけの種に、と狙っている者がいまも絶えないとしている。
大阪地裁で初公判が開かれたのは同年7月24日。25日付の3紙はいずれも法廷内の模様の絵入りで大きく報道。大毎は傍聴の模様をこう伝えた。
「傍聴席の混雑をおもんばかり100名に制限したため、傍聴人は遅れてはしょうがないと午前2時ごろから詰め掛け、裁判所の門前で夜の明けるのを待った。午前5時開門とともに傍聴券を受け取ったが、遅れて来た者は入場することができず、せめて被告の顔なりを見ようと三々五々、庭園内をさまよった」
「太い眉、毒々しい眼光、いかにも嫉妬深い男と…」
午前9時40分の開廷に先立って現れた被告・萬次郎の様子は――。
「白絣上布(高級な麻布)に黒絽五つ紋の羽織を着け、半白の頭をうなだれて深い思いに沈むように、時々顔を上げて傍聴席を顧みる。太い眉、毒々しい眼光、いかにも嫉妬深い男と見受けた」
審理に入ると「(萬次郎が)尾張の船頭だったころ、山梅楼に遊興したことから殺人に至るまでを述べると、もらい泣きする傍聴人が多かった」(「史談裁判第3集」)。
あいについては、酒を好み、酔えば乱れる癖があり、折節失態を演じて困ると述べた。そして、あいと布団商との場面を現認したが、必死に辛抱したと涙を見せた。あいと明治郎との関係に至っては「言語道断」で、あいが家出した後、衣類や荷物が運び出され、こまに聞いてもあいまいな態度で要領を得なかったことから「腹が立つやら悔しいやらで、食べるものも食べず、飲むものも飲まずにふせっていた」と語った。
6月19日、一同で堀江座の佳丈一座の芝居見物に出かけた。劇中、主人公が憤怒の余り、一刀を抜き放って相手を殺し、自分も割腹する一段を見て、殺意を募らせていたため、身に詰まされて一種言うに言えない心地がしたと供述。「芝居を見てから妙な気分になった」とした。