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 ここも大阪時事の記事を要約する。

〈山梅楼は約50年前から、中川家が現在とは別の場所で貸座敷を開業したが、1878(明治11)年、当主が病死。養女やえが家督を相続して現在地に移転し、芸妓を抱えて盛んに営業していた。和船の船頭でいつも遊びに来ていた愛知県海東郡福田村(現名古屋市)出身の犬飼萬次郎がやえと情を通じ、同家の婿養子になった。25年前のことで、この男が今回の凶行者。そのうち萬次郎はやえに落ち度があったとして家から追い出し、やえは別に貸席業を営むようになった。萬次郎は松島遊廓の芸妓すえを内縁の妻として家に入れ、万事を任せていたが、そのうち養女にしていた芸妓小萬こと座古谷あいとも関係。日清戦争後はあいを連れて台湾に行き、料理店を開業するなどして、2人の間に初光という女の子も生まれた。1899(明治32)年に大阪に戻ったが、すえには飽きたとして追い出し、あいを内妻に据えた。〉

 水知悠之介「大阪堀江今昔」(2003年)、八木滋「近世・堀江のなりたち」(「大阪春秋」2009年春号所収)によれば、堀江の成り立ちは1698(元禄11)年、河村瑞賢が淀川治水工事で堀江川を掘削したことに始まる。

男は何に怒りを募らせたのか?

 南北に分かれ、北堀江の東側が堀江遊廓として賑わいを増し、「官製遊廓」の新町遊廓に対して、庶民相手の比較的安価な遊廓として、明治になっても絶大な人気を集めていたという。「大阪府警察史第1巻」(1970年)は萬次郎を「堀江遊廓の顔利きで議員の列に加わる者」とし、芸妓の試験委員などの役にも就き、人望のある1人だったが、「女性関係がだらしなく、家の養女、芸妓、下女と誰彼の別なく関係を結んだ」と書いている。

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 一方のあいも、“一筋縄ではいきそうにない女性”だったと大阪時事は記述する。

〈店の常連客の布団商と情を通じ、萬次郎に知られて叱責された。次には、萬次郎のおいで養子にしていた明治郎とも関係。事件の約2カ月前の4月末、明治郎が愛知県の郷里に帰ると言って家を出ると、あいも5月5日、「風呂屋に行く」と言って出かけたまま帰らなかった。萬次郎は愛知県まで探しに行ったが消息はつかめないまま。そのうち、あいの母こまが安次郎とすみを連れて家に乗り込んできて、萬次郎があいの行き先を聞いても「全く知らない。きっぱり諦めてくれ」と答えるだけ。「親子で台湾に行く」と言って、勝手にあいの着物などを持ち出し始めた。〉

初めて新聞に掲載されたあいの写真(大阪毎日)

 1905年8月12日の一審判決は、萬次郎の心中を「あいはやや酒好きで、酒を飲むと淫蕩になりやすいだけでなく、年齢も25歳差とひどく離れているので、常に警戒を怠らなかった」と認定している。自分がまいた種だとはいえ、萬次郎が怒りを募らせたことが想像できる。

 そして、いよいよ凄惨な犯罪の実行に至る。