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連載明治事件史

江の島に別荘、手元には“数億の現金”…「18歳の女性」との出会いが生んだ“スリの大親分・銀次”という男

江の島に別荘、手元には“数億の現金”…「18歳の女性」との出会いが生んだ“スリの大親分・銀次”という男

スリの大親分・銀次#2

2023/06/18
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 銀次、本名・富田銀蔵は1866(慶応2)年3月、(東京)本郷駒込動坂町に生まれた。父親・富田金太郎は紙屑問屋と銭湯を営業。家は裕福だったようだ。

 のちに一家は駒込吉祥寺に移り、父は浅草・猿屋町署(現蔵前署)の刑事になった。銀次は生涯そのことを自慢にして「月給7円」(現在の約4万2000円)という1883(明治16)年2月の日付の辞令を後生大事に持っていた(印鑑は押されておらず、金額からも、正規採用の刑事ではなく、江戸時代の「御用聞き」のような補助的役割の臨時雇いだったのではないか)。

 江戸時代の風習を引きずったまま、家にはスリ、窃盗犯、ばくち打ちらが出入り。銀次はそうした連中から小遣いをもらい、わがままで金遣いの荒い性質になっていった。

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 銀次が13歳のとき、父は着物の仕立て職人にするため、日本橋通りの仕立屋に年季奉公に出した。

 当時一流の仕立屋で繁盛しており、職人も20~30人いた。銀次は最も若くかわいらしかったうえ、機転が利いて主人や兄弟子たちからも評判がよかった。手先が器用で物覚えがよく、腕を上げ、年期が明ける20歳のころには袴、丸帯、婚礼衣装のような高度の技術が要る縫物も針1本で縫い上げた。

壮年の仕立屋銀次(「日録20世紀」より)

「このままなら、腕のいい仕立職人として一生送れたかもしれない」

 1年のお礼奉公を済ませると、主人夫婦の紹介で結婚。下谷御徒町に自分の店を持った。このままなら、腕のいい仕立職人として一生送れたかもしれない。

 当時の仕立屋は、裁縫の修行に来る若い女性を受け入れていた。その中に1人、18歳の美しい女性がいて、いつしか銀次とねんごろな仲になった。街のうわさになったが、銀次は因果を含めて妻を実家に帰し、娘と事実上の夫婦として仕立屋を続けた。この娘がおくにで、実は当時売り出しのスリの親分、清水の熊の一人娘だった。

銀次の「妾」おくに(「法律新聞」より)

 当時のスリの本場は大阪で、千日前を中心に有名無名のスリ(大阪では「チボ」と呼ばれた)が昼となく夜となく出没。通行人を悩ませていた。東京には腕の立つスリがおらず、親分もわずかしかいなかった。

 1887(明治20)年ごろ、「巾着屋」という親分が仲間うちで名乗りを挙げ、市内に散在したスリが傘下に集合。次いで、おくにの父親、清水の熊が親分にのし上がり、巾着屋に対抗した。銀次の仕立屋の店に熊の子分たちが顔を出すようになり、銀次は金をやったり酒を飲ませたりして面倒を見たことから「若親分」と呼ばれる存在に。

スリの親分「巾着屋」(坂口鎮雄「掏摸」より)

32歳で跡目を継ぎ、いよいよスリの世界へ

 1899(明治32)年、清水の熊が引退。銀次が32歳で跡目を継いだ。同じ年に巾着屋の跡目を「湯島の吉」が相続。ほかに「鼈甲(べっこう)勝」という親分も登場して三すくみの状態になった。

「清水の熊」 (坂口鎮雄「掏摸」より)
「清水の熊」の葬儀に集まったスリ連。最後列のひつぎの前にいるのが銀次(坂口鎮雄「掏摸」より)

 銀次は度胸があって子分の面倒見もいいうえ、大阪、名古屋、宇都宮、高崎のスリの親分が縄張り争いで血の雨が降るようなけんかを繰り返していたのを、仲に入って親分を東京に集め、手打ちをさせた。「度胸っ骨の据わったいい親分だ」と人気が出て、子分が各地から集まるようになり、ついに東京一の親分にのし上がった。