「スリは人を聡明・明敏にする」当時の独特すぎる“スリの評判”
1905年当時、人口190万人の東京市にスリが1500人。市民1300人に1人がスリだったといわれる。まさに「スリ天国」だった。尾佐竹の著書も、スリが高等な技術を要することが強調されている。当時の社会には、スリを職人芸の粋のように見る面があったようだ。
加太こうじ「『明治』『大正』犯罪史」(1980年)も「スリは当時は粋な職業とされていた。なぜ粋な職業かというと、暴力を絶対に使わなかったからである。手先の技術だけで、あるいは心理作戦だけで、狙った相手から紙入れなり金時計なりをすり取る。それは実に鮮やかで一流の手品使いのようだった」と書いている。
青柳有美という牧師・ジャーナリストは1902年に出版された「善魔哲学」で「掏摸公許論」を展開している。
要旨は、スリがいる土地は「生き馬の目を抜く」意味から、人に注意力を備わせ、聡明・明敏にする。スリは遊民ではなく、学者が学術研究に苦心するように、どうすれば最もうまくスリができるかと日夜、頭を悩ませ、切磋琢磨してやむことがない。そうした理由などから「掏摸の公許を大政府に請願しようと思う」と言う。一種の皮肉だろう。
スリはその後、戦争の時代に減少するが、戦後激増する。雑誌「郵政」1969年6月号には、動物学者の内田亨・北海道大名誉教授の「掏摸は敵ではない」というエッセーが載っている。
満員電車ではよくスリに内ポケットの財布をすられたとしたうえで、「スリに(カモだと)甘く見られることは不快ではない。もちろん『スリは敵』という感はなく、『スリは仲間に近い』というくらいの気持ちであろうか」と書いている。
いまからは考えられないし、すられた金額にもよるが、スリを犯罪視する感覚が薄かったのだろう。これらに共通するのは、「スリは文化だ」という、どこか誇らしげな感情がのぞいていることだ。
「手前は仕立屋が商売で、はじめからのスリではありません」
銀次の初公判は1910(明治43)年5月13日、東京地方裁判所で開かれた。法廷での銀次の様子を14日付東朝が「掏摸王銀次公判」の見出しで書き留めている。
「身長5尺2~3寸(約156~159センチ)、双肩丸々と太り、縞の袷(裏地の付いた)羽織を引っかけ」
「編み笠(当時被告人は入退廷の際、編み笠をかぶせられた)をはねのけた顔を見ると、これはまた案外ちょっぽりとした鼻下のひげ、やや丸っこい顔に小さい目、髪は分けることができるまでに形よく伸びている。これがかのスリ界の三人男ととりはやされた湯島の吉、鼈甲勝と並んで立った男かとあやしまれる」
14日付(13日発行)報知夕刊によれば、裁判長の尋問に銀次は「手前は仕立屋が商売で、はじめからのスリではありません」と陳述。父親の仕事の関係でスリと知り合いになり、次第にその世界に入っていくうち親分に担がれるようになったが、5年前に跡目を譲った」と弁解した。