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 公判での銀次の陳述によれば、自身は実際にスリをしたことは一度もなかった。スリのもうけの割り前は、2人以上なら3割、単独の場合は4割を頭ハネ。全盛時代は、深川に50~60軒の家作を持って、月々の家賃が約200円(現在の約72万円)あった。

 湘南江の島に別荘があり、現金で5万~6万円(同約1億8000万~2億1000万円)はいつも手元に置き、預金も60万~70万円あった。41歳の「厄年」に縄張りを子分に譲ったが、他の子分が言うことを聞かず排斥の動きが収まらなくなったため、再び親分の座に戻った。逮捕はそれから1年たったころだった。

はしを使うのはスリの練習?

 そもそも、当時、スリとはどんな存在だったのか。尾佐竹猛が1922年、「法律新聞」などに掲載した「掏摸の沿革」(のち「賭博と掏摸の研究」に収録)は「すりはわが国独特の犯罪といってもいいものだ」と言う。主張を要約すると――。

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 1.欧米や中国にも相当する犯罪はあるが、元来指先が器用でない外国人は日本人の比ではない。欧米人や中国人には絶対無理

 

 2.日本人が美術工芸に巧みな一因は指先が器用だからと言われているが、その長所は一面、スリの発達を促す短所にもなっている。器用さは食事にはしを使う習慣が大きな要因で、私はかつて「子どもにはしを使うのに慣れさせている親は、暗にスリを練習させるのに等しい」と言って怒られたことがある

 

 3.スリと手品の区別は善悪の標準の差にすぎない

 

 4.関東ではスリと言い、関西ではチボと呼ぶが、いずれも「掏摸」の字を充てる。警察のスリ係は「トウモ(掏摸の音読)係」と呼ばれる。語源は中国の法律にある

 

 5.ある時期までは街頭での盗賊を「スリ」と呼んだが、17世紀の中ごろから現在の意味で使われるようになった。「巾着(きんちゃく=財布)」を刃物で切るスリ行為から「巾着切り」の呼び名も。大阪では刃物作りで有名な堺が近いことから、刃物でひもを切る巾着切りが多いとされた

 

 6.江戸時代から盛んになり、幕末には「名人」と呼ばれるスリもいた。親分によるスリの組織化も進んだが、天保の改革で摘発されたことも

 同じ尾佐竹猛の「掏摸物語」にはさまざまなスリの技術が詳述されている。

 方法は汽車・電車・汽船の中で行う「函(箱)師」と、往来で稼ぐ「平場師」、停車場(駅)での置き引きなどの3つに分類。「函師」の中には、長距離電車などが専門の「長函師」もいる。「平場師」は懐中を狙うのと、女性のクシ、カンザシを狙うのとに分かれる。

 衣服が現在とは違ってほとんどが和服だった時代。例として、「平場師」3人でやる手口は、1人が前からどんと突き当り、後ろから1人が懐中の財布などを抜き取り、残りの1人に渡す。

 巾着屋一家は「平場師」が主で、清水の熊一家は多くが最も高度な技術とされる函師だった。汽車などに乗る客は荷物を持っており、懐は比較的温かく、夜間と疲労に乗じやすく、懇意になりやすいという。