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 しかし裁判長から「黙れ! 去年もおととしも贓品の故買、分配に関係しているではないか」と一喝され「(跡目を譲った子分が)若輩で、頼まれたため数回関係した」と認めた。「しかし、今後は誓って正業に復しますから、なにぶん寛大な裁判を」と神妙に頭を下げた。

 14日付時事新報の記事にはこんな記述が。

「傍聴席は銀次の身内らしい、妙に目つきの鋭い男や怪しげな者ばかりで満たされていた。他の傍聴人は『懐中物ご用心の法廷だ』とささやき合って、肝心の傍聴はそっちのけで、誰もが所持品ばかり注意していたように見えた」

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 弁護団は今村力三郎、布施辰治らそうそうたるメンバーだったが、「史談裁判第3集」によると、その1人で明治大総長などを務めた鵜沢総明は「サザエは下から火を加えても口を閉じるだけ。上からみりんや醤油を加えると口を開き、つぼ焼きが作れる。重刑を加えるよりも涙を注げ」と論じた。

下された「すこぶる重い」判決。そのとき、銀次は…

 しかし、5月24日の判決は贓物の故買と収受の罪で懲役10年、罰金200円。「故買としてはすこぶる重い」(「史談裁判第3集」)。見せしめの意図があったのは明らかだろう。

一審判決は予想以上の重刑だった(報知)

 銀次も予想外だったのだろう。28日付(27日発行)報知夕刊は「銀次真っ赤に爲(為=な)る」の見出し。銀次の跡目を継いだ子分らも予想を上回る刑で、28日付時事新報は「各被告らはいずれもその重刑を言い渡されるや、怒気勃然(ぼつぜん=顔色を変えて怒る)、満面朱を注いで『こんな判決に服することはできない』と口々につぶやきつつ退廷した」と報じた。

 銀次らは控訴し、控訴審も開かれたが、そこで検事が「一審判決は軽きに失する」と主張したため、銀次は減刑の見込みはないとして控訴を取り下げた(1910年9月15日付読売)。

その後の銀次は1年後…

 刑に服し、出獄したのは1917(大正6)年とも18(同7)年ともいわれる。やはり逮捕されたおくには獄中で死亡し、財産は四散していた。仕立屋に戻ったとされるが、1918年11月8日付読売には、「仕立屋銀次 出獄後1年 再び捕は(わ)る」の記事が。

いったん出獄したものの、また捕まった(読売)

 同月24日付同紙の記事によれば、共謀して新聞に「質流れ品安価売却」の広告を出し、贓品の買い取り、処分をしていた疑いだった。「史談裁判第3集」は、取り調べが過酷で、公判では被告の大半が予審調書を否認したとしている。結局、1920(大正9)年4月24日の判決は懲役8年、罰金200円で再び獄中に。

 法廷での銀次はかつての東京一のスリの親分の威厳は見られなかったようだ。1回目、2回目の裁判とも弁護を担当した布施辰治は中西伊之助との共著「審(さば)くもの審かれるもの」(1924年)で「彼が法廷で裁判官から審問を受ける時の態度はみじめなものであった」と書いている。

 新聞も関心を失ったようで、報道は極端に少なくなっていた。ところが……。