親子3代、およそ100年近くにわたって徳川埋蔵金を掘り探ったのが、トレジャーハンターの水野智之さん。出るか出ないかわからない財宝になぜ取り憑かれたのか?
報道カメラマンとして活躍する氏の新刊『追想の現場』(鉄人社/高木瑞穂編)より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)
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徳川埋蔵金に憑りつかれた男
狭い縦穴を10メートルほど梯子で降りると、約10メートルの横穴が真っ直ぐ伸びていた。そこにはスコップで狭い穴の天井をカリカリ削りながら掘り進む男がいた。
水野智之さんだ。群馬県赤城山中で、出るか出ないかわからぬ徳川埋蔵金を、毎日、探し続けている。
「こんなバカがひとり、1億2千万人の中にいるのも浮世の味」と世間はからかうが、智之さんは大真面目だ。さらに智之さんの祖先も、明治の初めから徳川埋蔵金を毎日掘り続けていたというから驚いた。智之さんはその3代目だ。
その1代目・智義氏が徳川埋蔵金を掘り始めたきっかけは、こうだ。幕末、叔父の中島茂人が勘定吟味役奉行をしていた関係で赤城山に徳川家が300万両の小判を隠したという噂話を聞かされた。智義氏は「掘り当てたらその金を使って世の中のために使おう」と高い理想を抱き、発掘を決意したのだ。
彼は古地図を調べ上げると同時に、村人の噂話を聞きまわった。そのなかで最もリアリティがあったのは、時の幕府勘定奉行・小栗上野介が、手下を使って金塊を利根川を遡って運び、赤城山山中に埋めたというものだった。これは大義兵法秘団書という伝え書きに書かれていたという。
智義氏は掘りに掘った。すると明治23年に家康像を発見。さらに埋蔵金の在りかを指し示すとされる銅板、燈明皿を手に入れた。こうして微かな希望は確信へと変わっていく。
「これは出る」
後を引き継いだ2代目義治氏も昭和50年まで「穴掘り」に邁進した。その間の昭和7年に巨大な石灰の亀を発見したことにより、これはいよいよと思ったが、「黄金」発見には至らない。これが黄金伝説に憑りつかれた水野家の経緯だ。
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