乙松の経歴は21日発行22日付報知夕刊の「藝(芸)名は松島薫」が見出しの記事にある。
犯人渡邊乙松は北海道札幌区(現札幌市)月寒村、士族・渡邊貞齋の次男乙吉が本名で、18歳の時、(東京)芝露月町の家の養子になったがすぐ飛び出し、新派俳優・福井茂兵衛に弟子入り。松島薫と称し、よくこれを偽名に使っていた。放蕩のため破門され、その前後から強盗、窃盗、殺人未遂などの犯罪を絶えず続けていた。お艶殺しについては「お艶とは以前から関係があったので、あれは心中のし損ないだ」と言っていた。
福井茂兵衛は、自由党の壮士らが自由民権思想を広めるために始めた「壮士芝居」出身の俳優だが、22日付では東日と國民が「山口定雄の弟子」と記述。控訴審で本人も「明治33(1900)年ごろ、壮士俳優・山口定雄の弟子となりましたが、同37(1904)年に山口が没したので、その後独立して、浅草の演芸奨励館に入って同所の常盤座に出ておりました」と供述しており、こちらの方が正しいようだ。
柳永二郎『繪番附 新派劇談』(1966年)によれば、山口は元関西歌舞伎の女形役者。壮士芝居から新派に変わっても女形に定評があり、一時は川上音二郎と並び称されたほどだった。だが、けがが元で体が不自由になり、1907(明治40)年に巡業先で死去した。乙松の供述とは時期がずれるが、記憶違いか。
女形役者くずれの強盗・窃盗常習者だった乙松
要するに乙松は女形役者くずれの強盗・窃盗常習者だった。そんな男がどこで教養を身に付けたのか。22日付報知朝刊には乙松が書いたとされる漢詩が紹介されている。「苦樂(楽)榮(栄)辱一睡夢 四十餘(余)年人生空 生不知死亦不知 菩提覺(覚)來(来)歸(帰)一元」。
同日付時事新報と都新聞には、出所は報知と同じ刑事と思われる「辞世の歌」と俳句も。「身はたとへ(え)獄舎の露と消ゆるとも心は空に有明の月」「軈(やが)て散る花か紅葉か月の影」。
7月23日付の報知朝刊と國民、萬朝報はそろって杉江という警視庁技師の談話を掲載。内容は乙松の心理に、酒害に加えて女形を演じたことの影響を指摘している。「お艶殺しの犯人 乙松は壮俳の女形 恐しい残虐性と色慾(欲)性 舞臺(台)と犯罪との面白い連鎖」が見出しの萬朝報を見よう。
まだ予審が決定しないから十分なことは言えないが、彼の犯行は残虐性と色欲性の高進が主因で、ほかに15~16歳ごろから大酒を飲み始め、そのために目下彼は酒毒にかかっており、酒気を離れては仕事ができない状態で、犯罪を酒が誘導したことは明らか。また、彼が幼少時からの環境、すなわち若い時に養子に行き、のち俳優となり、地方を漂浪したという境遇は、一種の不良背徳性が彼の良心を奪い去ったと思う。彼が常に芝居で女形となり、常に女装していた心理状態が、これら女に対する犯罪と連鎖を成している……。
「酒毒」とはアルコール中毒のことだろう。その影響は分かるとしても、女形を演じ続けたことが女性に対する犯罪とどう関連するというのか。現代からみれば、きわめて偏った見方に基づく報道といえる。乙松が予審で有罪となり公判に付されることが決まったのは同年10月8日。理由は分からないが、このあたりから新聞の扱いは極端に小さくなる。