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 事件を振り返って残る謎は、殺害されるまでのお艶の心情だ。『斷獄實録』には第一審と控訴審での乙松の供述が載っている。

 一審では「(お艶を)夫と絶縁させて自分の家内にしようとしたのか」という裁判長の問いに「もちろんです。そう考えたに相違ありません」と答えているが、どこまで本気だったか……。そば屋でも関係したことを認め、「本当は関係したくなかったが、慰めるつもりだった」とも語った。それに対してお艶はどんな気持ちだったのか。それは乙松の供述を通してもうかがえる。控訴審での彼の供述から引き出してみよう。

 お艶は私に向かい、あなたが来てくれるかどうか分からない。もし頼ることができなかったらどうしよう。いっそ死んでしまうというようなことを申しましたから、いろいろ慰めてやりました。お艶は幼い時に実の父母と別れ、養家で育てられて、夫を持ったが前にも監獄へ行った人であるから、家をしまって養家に帰ったが、養子でももらうのか、その相談をしている。自分はもうお嫁に行くのは嫌だというようなことを申しておりました。お艶は、いまの夫と縁を切ってもらおうと思うから、あなたから家の方へ話して一緒になろうと言っておりました。私はいろいろと慰めてやり、夫との離縁は刑が決まってから話した方がいいと言うと、お艶は、あなたは私と夫婦になる気がないからそう言うのだろうと申しました。

乙松しか頼れないと思っていたお艶の絶望

 お艶は乙松と一緒になりたいというより、彼しか頼れないと思っていたが、男に自分が求めるような誠意はないことも知っていた。道々、彼女は乙松に「夫婦になれなければ、夫もあり、今夜うそをついて出てきたのだから(養家へは)帰れない」と言う。お艶の絶望は三菱ケ原に差しかかった時、ピークに達する。

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 お艶は思い切ったからと言うので、私は穏やかに言っても聞きませんから、少し語を強くして、そんなに死にたければ殺してやろうと言うと、あなたがそんなことをすれば大変だと言いました。それから2人で死んでしまおう。そうすれば情死だからと言った。

 

 歩いて呉服橋の方へ行くと、お艶はどこへ行くのですかと言うから、おまえの家へ連れて行くのだと言うと、また家へ帰るのですか、いま一緒に死のうと言ったのに帰るのですか、と言うから、私はいろいろ慰めたが、お艶はどうしても帰りたくないと言って、道路の際まで来て動かないものですから、どうするのかと聞くと、あなたは帰るなら帰りなさい、私は死にますと言うので、それなら一緒に死のう、ハンカチで首を絞めてやろうと言って、お艶が持っていた私の絹ハンカチを取り戻しました。その時は私は殺す気はなかったのです。

 乙松には心中する気もなかっただろう。供述は続く。